父母の死
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「フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「父母の死」の解説
父ハインリヒはコスタンツァと結婚したことで帝位に加えてシチリア王位も手に入れ、地中海からゲルマン海に至る広大な領土を有していた。1197年にハインリヒが遠征中に病没すると、帝国の支配権を欲するフリードリヒの叔父シュヴァーベン公フィリップと、シチリア支配を望むパレルモの廷臣であるラヴェンナ公マルクヴァルトがフリードリヒを傀儡に据えようとする。ハインリヒの遺言でフリードリヒの摂政を務めていたコスタンツァは2人に対抗するため、教皇インノケンティウス3世を頼った。インノケンティウスはフィリップのローマ王選出、ローマ教皇のシチリア王国に対する宗主権の承認を条件に出し、1198年5月17日にフリードリヒにシチリア王位が戴冠される。 1198年11月27日に摂政を務めていたコンスタンツェが没すると、孤児となったフリードリヒはインノケンティウスの後見を受けることになる。
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父・母の死
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近江国小谷(現在の滋賀県長浜市)に生まれる。天正元年(1573年)に父・長政が伯父・織田信長に敵対して攻められ、小谷城が落城すると母妹らとともに藤掛永勝に救出された。この時、父と祖父・久政は自害、兄の万福丸は捕らえられ、信長の命で羽柴秀吉によって処刑されている。その後は伯父の織田信包のもとにおかれ、伊勢安濃津城または尾張清洲城で保護されていたとされていたが、近年の研究によると尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたとされている(『渓心院文』)。天正2年9月29日に織田信次が戦死した後、織田信長の岐阜城に転居することになる。 信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に攻められ自刃した天正10年(1582年)、母・市が織田氏家臣の柴田勝家と再婚すると、茶々は母や妹達とともに越前国北の庄城(現在の福井県福井市)に移る。 勝家が羽柴秀吉と対立し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに敗れると、市は勝家共々自害したが、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けた。また北の庄城落城後に三姉妹は遥の谷に匿われた上で羽柴秀吉に知らされ、これを聞いた秀吉が直ちに迎えを出して、三姉妹を安土城に入城させ(『玉興記』)、その後は秀吉ではなく織田信雄が三姉妹を後見して面倒をみたともいわれている。この時に一年間程、茶々の世話をしたのが、信長の妹のお犬の方である(『大雲山誌稿』)。また、叔父の織田長益(有楽、または有楽斎)の庇護を受け、安土城に住み、後に聚楽第で伯母の京極マリアの縁を頼って京極竜子後見の元にいたともいわれている。もっとも、福田千鶴によれば、いずれの説も一次史料による裏付けに欠け、この時期の三姉妹の所在については不明である。
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