父業を継ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/16 21:46 UTC 版)
314年2月、張軌が年老いて病に侵されていた為、張寔は副刺史に任じられて補佐に当たった。5月、張軌は病が重くなると、張寔に後を継がせるようにと遺言した。間もなく張軌が亡くなると、長史張璽らは張寔を推戴して父の地位を代行させた。10月、愍帝は詔を下し「汝の父である武公(張軌)は、西夏の地において著しい勲功があった。胡賊が狡猾にも洛陽に迫ると、義兵・鋭卒を万里より遣わしてこれを助けた。また、朝貢を毎年絶やすこともなかった。朝廷は諸侯に征伐の任を委ね、九域を動かすも、蒼天の加護は得られなかった。皇室の権威は余りにも凋落し、朕は息が詰まる思いである。ただ汝は思慮深く立派であり、才知に長け強い志を持っている。西海において模範となるべき人物である。今、持節・都督涼州諸軍事・西中郎将・涼州刺史・領護羌校尉・西平公を授ける。これは以前よりの忠節の賜物である。祖先の功業を引き継ぎ、皇室を守るように」と告げた。 315年10月、蘭池長趙奭の上軍である張冰は、ある場所で印璽を発見した。その上面には『皇帝行璽』と刻まれていたので、彼はこの印璽を張寔へ献上した。この事実が知れ渡ると、群臣はみな張寔が皇帝に昇る兆しであるとして大いに喜び、祝賀した。だが、張寔は玉璽を握りしめると「我は常々、袁本初が印を掲げて肘を見せたことを忌々しく思っていた(袁紹は韓馥と共に幽州牧劉虞を帝に立てようと謀っていた。その為、彼は玉印を手に入れると、劉虞擁立の為の大義名分とした。そして、集会の席で曹操に向けて、肘を挙げて玉印を見せつけた。曹操はそれを見て笑ったが、内心では憎らしく思ったという)。諸君らはなぜこのような話をしているのか」と述べ、この印璽を長安にいる愍帝の下へ送り届けた。 316年4月、張寔は国中に命を下し「恐れ多くも我は先人の事業を受け継いだ。刑事・政事が民衆の患とならないことを願っているが、年々飢饉・旱害が起こっており、これは我に何かしらの欠点があるということであろう。今、それを伝える者があれば罪には問わぬ」と述べ、官吏・百姓の中で自らの過失を申告した者に布絹・羊・筐篚・穀物を与えた。高昌の賊曹佐隗瑾は「聖王が大事を成し遂げるには、必ず三訊の法(一度目は群吏に尋ね、二度目は群臣に問い、三度目は万民の声を聴いてから法を運用すること)を尊び、諫官を傍に置いて根本の道理を正し、疑丞が補欠・拾遺を行い国政を輔佐しました。しかしながら、明公(張寔)は事の大小に関わらず、すべての政を自らの判断で決めております。これでは、挙兵の命を発布したとしても、州府の役人はその意味をよく理解できず、万が一失策があってもそれを責める人がおりません。下級官吏は明公の権威を恐れており、ただその命令に服従してるに過ぎません。このような状況下では、仮に大金を下賜するとしても、あえて明公へ進言する人はいないでしょう。私が思うに、明公は少しだけその聡明さを抑え、諸々の政事は下級官吏にも意見を求めるようにすべきです。そして、彼らが心の内に秘めていることを喋らせ、その中で策を取捨選択すれば、自ずと有益な提案が現れてくるでしょう。そうすれば、褒賞を下賜して案を募る必要もありません」と進言した。張寔はこの発言に大いに喜び、この提案を容れると共に、隗瑾の位を三等昇進させて絹40匹を下賜した。
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