田中重弥
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田中 重弥(田中 重彌[1]、たなか しげや、1908年(明治41年)3月30日[2] - 1993年(平成5年)2月25日[2])は、日本の出版実業家、俳人、衆議院議員(2世議員)。雅号は茂哉(しげや)。田中弥助の長男。
経歴
長野県長野市に生まれる。1926年(大正15年)旧制長野商業学校卒業[3]。父業を継いで第一法規出版社長となる。1950年(昭和25年)、全法令を網羅した『現行法規総覧』全100巻を出版して行政関係者必備の書との声価を得て、1953年(昭和28年)から日本の古今の全裁判例を網羅した『判例体系』全300巻を刊行した。さらに一般書籍まで出版を広げ、美術書「光悦」、歴史書「日本政治裁判史録」は毎日出版文化賞特別賞受賞。
1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で初当選。1回の落選を挟み、衆院2期を務める。1951年(昭和26年)には衆議院電気通信委員長に就任し、電信電話公社法の制定を推進、テレビ放送の7メガサイクル(NHK)・6メガサイクル(民放)の調整役を果たした。
その他、長野県経営者協会会長、日本ユネスコ協会国内委員、日本電話協会副会長、長野県印刷業協会理事長、全日本印刷工協会副会長、長野県観光開発審議会会長、長野放送取締役などを歴任した。
1970年(昭和45年)11月、「多年法令出版業界にあつて加除式法規書を刊行しよく出版文化の進展に寄与した」として藍綬褒章を受章[4]、1976年(昭和51年)11月、同年6月に「長野市長野運動公園造成費として金百万円を寄付した」として紺綬褒章を受章[5]、1978年(昭和53年)4月の春の叙勲で勲二等瑞宝章を受章する[6]。
1993年2月25日、死去。84歳没。同年3月19日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従四位に叙された[1]。
俳人としては句集『土を恋ふ』や『朴の花』がある。
脚注
出典
- 「郷土歴史人物事典 長野」第一法規 1978年
議会 | ||
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先代 関内正一 |
![]() 1954年 - 1955年 |
次代 橋本登美三郎 |
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