父・河野克次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 17:04 UTC 版)
父の河野克次(かわの かつじ)は、海軍機関学校(40期)を卒業して海軍機関科将校となり、特殊潜航艇を搭載した伊16潜水艦の機関長として真珠湾攻撃に参加した。 詳細は「真珠湾攻撃#特殊潜航艇による攻撃」を参照 戦後は復員業務に従事した後、公職追放に遭わずにそのまま海上保安庁で勤務した。1952年(昭和27年)に設置された海上警備隊(海上自衛隊の前身)に移り、1954年(昭和29年)に海上自衛隊が設置されると海上自衛官となり、海上自衛隊第2術科学校長を最後に退官した。 河野が自衛官を志して防衛大学校に入校し、さらに海上自衛隊に進んだのは、いずれも父・河野克次の影響が強い。河野は父との関りについて下記のように回想している。 訪米した際に、高齢の退役軍人と会う機会もありました。そういう場面で父が旧海軍にいたことを話すと、けっしてネガティブな反応はなかった。むしろ、尊敬の念を持たれる。オーストラリアでも勇者として扱われました。おまえはそういう父親の息子なんだ、と。 — 河野克俊、
※この「父・河野克次」の解説は、「河野克俊」の解説の一部です。
「父・河野克次」を含む「河野克俊」の記事については、「河野克俊」の概要を参照ください。
- 父・河野克次のページへのリンク