藤原道経 (和泉守)とは? わかりやすく解説

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藤原道経 (和泉守)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/07 15:17 UTC 版)

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藤原道経
時代 平安時代後期
生誕 康平3年(1060年)頃[1]
死没 不詳
改名 道経→蓮寂(法名)[2]
別名 家隆[3]
官位 従五位上和泉守
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 藤原北家道綱
父母 父:藤原顕綱、母:藤原隆経の娘
兄弟 兼子家通、有佐、道経長子
藤原清家または菅原清房の娘、橘則隆の娘
兼忠、増季、行雅、道源
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藤原 道経(ふじわら の みちつね)は、平安時代後期の貴族歌人藤原北家道綱流、丹波守藤原顕綱の子。官位従五位上和泉守

経歴

官歴については、寛治7年(1093年)から永長元年(1096年)頃[4]に和泉守であったこと以外は不明である。

康和5年(1103年)12月9日、藤原忠実の子・威徳が名を忠通と改め童殿上した日の結鬟役を務めている[5]

歌人としては、忠通家歌壇の常連であった他、おじにあたる六条藤家藤原顕季が関係する歌合に多く出詠しており、顕季が元永元年(1118年)6月に催した人麿影供にも臨席している[6]。一方で、御子左家藤原俊成の大おじでもあり、俊成が保延4年(1138年)に藤原基俊に弟子入りする際の仲立ちとなっている[7]

金葉集」以下の勅撰集に19首[8]入集している。

なお、住吉社神主津守国冬が「歌人の多くは当社の御眷属となっており、和泉守道経が鬼形で紙筆を持ち、外の斎垣の北西角の壇上に、西を向いて座っているのが見えたという言い伝えがある」と語ったという話が『井蛙抄』にある[9]

系譜

『尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)「藤原道経」
  2. ^ 和歌色葉』名誉歌仙「入道」/ コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)「藤原道経」
  3. ^ 『尊卑分脈』
  4. ^ 森田兼吉「讃岐典侍藤原長子の前半生:父母の死を中心に」(『香椎潟』38 福岡女子大学 1993年 p.119-130)
  5. ^ 『殿暦』康和五年十二月九日条
  6. ^ 橋本不美男「院政期歌壇の一考察――藤原俊忠の生涯をめぐって」(『書陵部紀要』10 宮内庁書陵部 1958年 p.1-32)/井上宗雄 「院政期歌壇の考察 ―延久より久寿に至る―」(『国文学研究』19 早稲田大学国文学会 1959年 p.43-59)
  7. ^ 『無名抄』三位入道基俊成弟子事
  8. ^ 古典選集本文(二十一代集)データベースによると"藤原道経"での入集は18首であるが、「詞花集」雑下に"沙弥蓮寂"の1首が見える。なお『勅撰作者部類』は"道経"の入集数を16首、"蓮寂"を和泉守道経の子とする。またコトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)「藤原道経」では20首入集とする。
  9. ^ 野中和孝 「井蛙抄雑談篇全注釈(五)」(六四 住吉神主国冬云) (『活水論文集』45 現代日本文化学科編 2002年 p.1-21)



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