昭和45年11月とは? わかりやすく解説

昭和45年11月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 02:31 UTC 版)

森田必勝」の記事における「昭和45年11月」の解説

1970年昭和45年11月3日必勝ら5人は六本木4丁目のサウナミスティー」に集合し檄文要求項目原案検討した。この時、三島全員自決するという計画止めさせ、小賀、小川古賀の3名に生き残ることを命じ、「連隊長護衛し連隊長自決させないように連れて行く任務誰かがやらなければならない。その任務古賀、小賀、小川の3人に頼む。森田介錯をさっぱりとやってくれ、余り苦しませるな」と言った必勝は、「俺たちは、生きているにせよ死んで行くにしろ一緒なんだ、またどこかで会えるのだから」、「(われわれは一心同体だから)あの世で魂はひとつになるんだ」と言った三島必勝にも前日に、「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」と自決止めるように説得していた。 しかし必勝は、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と押し切りその後に小賀ら3人も、「一緒に生きて先生精神継ごう」と説得し三島必勝思い直すことを期待したが、必勝決意固く揺るがなかった。 11月4日から6日まで、三島楯の会陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを行なった。この回は鉄道爆破訓練をした。訓練終了後必勝ら5人は、御殿場市内の御殿場別館開かれた慰労会で、他の会員自衛隊員らと密かに別離惜しんだ必勝小学唱歌「花」歌った11月10日必勝と小賀、小川古賀の4人は、菊地勝夫1等陸尉との面会口実に、市ヶ谷駐屯地入り32連隊隊舎前を下見して駐車場所確認した11月12日必勝小川、小賀の3人は、東武百貨店開催された「三島由紀夫展」を見学したその夜スナック「パークサイド」で、必勝小川自分介錯依頼したこの頃、「十二社グループ」の野田隆史は小林荘に泊まり来て別れ際いつものように必勝小便横丁焼き鳥屋に誘うが、この時必勝は、「勘弁してくれ」と頭を振って断わるばかりであったという。野田決起同志に選ばなかったことを、必勝は心苦しく思っていたのかもしれない推察されている。 11月14日必勝ら5人は、サウナミスティー」に集合した32連隊隊舎前で待機させる記者2名をNHK記者伊達宗克サンデー毎日記者徳岡孝夫にし、檄文記念写真決起当日に渡す主旨説明三島からなされ、5人で檄文原案検討した11月19日必勝ら5人は、伊勢丹会館後楽園サウナ休憩室集合し32連隊長拘束した後の自衛隊集合までの時間や、三島演説などの時間配分打ち合わせした必勝が「要求通らない場合連隊長殺して良いか」と訊ねると、「無傷で返さなければならない」と三島答えたその後スナック「パークサイド」で、必勝は、「俺の介錯をしてくれるのは最大友情だよ」と古賀言ったこの頃必勝初代学生長の持丸博電話し、「でもおごらせてくれませんか」と誘った。すでに会社勤めをしていた持丸は、「お前におごってもらうわけにはいかないよ」と言ったが、高田馬場で会うことにし、一緒に食べた以前変わらず必勝ビール飲みながら冗談言い女性の話や楯の会の話など無邪気に雑談したという。 11月21日決行当日11月25日32連隊長在室有無確認するため、三島著書届けることを口実必勝市ヶ谷駐屯地赴くと、当日宮田朋幸32連隊長不在であることが判明した必勝ら5人は、中華第一」に集合し協議結果拘束相手東部方面総監変更することに決定した三島はすぐに益田兼利東部方面総監電話入れ11月25日午前11時に面会約束とりつけた同日と翌11月22日必勝ら4人は三島から4千円受け取り新宿ステーションビルなどで、ロープバリケード構築の際に使う針金ペンチ垂れ幕用のキャラコ布、気つけ用のブランデー水筒などを購入した。夜、必勝は、小賀が運転する車で横浜市内ドライブ中、「三島介錯できない時は頼む」と小賀に言った11月23日必勝ら5人は、パレスホテル519号室に集合し垂れ幕檄文鉢巻辞世の句などを準備し一連の行動予行演習行なった三島キャラコ布地要求書墨書する時に22日23日付の読売産経東京新聞と、24日付の夕刊フジ下敷き用いられた。三島は「七生報国」(七たび生まれ変わっても、朝敵滅ぼし、国に報いるの意)と書いた日の丸鉢巻を、必勝ら4人に配布した。 翌11月24日も、必勝ら5人はパレスホテル集合し再度予行演習をし、前日合わせ合計約8回練習行なった必勝三島に、「頸動脈はどこにあるのですか」と質問し三島は首の横を押してみせて教え、「ちゃんとうまくやれよ、串刺しにするなよ」と言った予行演習終えた同日の昼14時頃、三島徳岡孝夫伊達宗克に、「明日午前11時に腕章カメラ持ってくること、明日午前10時にまた連絡する」という主旨電話をし、15時頃には、新潮社担当編集者小島喜久江に明日10時30分小説原稿自宅取りに来るように電話入れたその時間帯、必勝1人密かに故郷四日市市赴いていたとみられ、父母墓参りをし、床屋散髪来ていたという目撃談がある。事件後に警視庁調べた必勝遺品中に24日付の三重県版中日新聞があった。 東京とんぼがえりした必勝は、夕方16時頃から三島ら4人と共に新橋2丁目料亭末げん」の奥の間五番八畳)で鳥鍋料理「わ」コースビール別れ会食をした。必勝学生背筋をすっと伸ばして正座していたという。 食事中明日決起のことは話さず、映画女優俳優の話などの雑談をした。三島は、「いよいよとなるともっとセンチメンタルになると思っていたがなんともない結局センチメンタルになるのは我々を見た第三者なんだろうな」と言った20時頃に5人は店を出て、小賀の運転する車で帰宅の途についた車中三島は、「総監立派な人だから申し訳ない目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言ったまた、もしも総監室に入る前に自衛隊員らに察知され捕まった場合は、5人全員で舌を噛んで死ぬしかないとも話した三島大田区南馬込自宅帰宅し小川古賀は、小賀の戸塚下宿宿泊した。3人は介錯のことを話し合い小川は、必勝介錯できない場合代わり剣道経験豊富な小賀に依頼した。しかし3人の間では、介錯予定者が実行できない時には三島必勝問わずに、残り誰かが介錯する決めていた。 必勝西新宿4丁目の小林8号室の下宿帰宅後、同居する田中健一誘って近く食堂三枝」に行って23時頃まで酒を飲んだ必勝その時に、三島から託され赤インクメモ封筒2通を取り出し、「明日市ヶ谷会館例会には、先生もおれも出られない。ふたり(徳岡孝夫伊達宗克)が来たら、これを渡してくれ」と田中預けた田中黙って封筒受け取り必勝下宿戻った11月25日午前7時小林荘の廊下ピンク電話鳴り必勝起床した前もって必勝古賀に「起こしてくれ」と依頼していた。田中必勝よりも遅く起床した。いつもは制服の下はパンツ姿の必勝が、白い褌を締め始めていた。田中背後回って、褌の結び目しっかりと直してやった。 秋晴れの朝の9時頃、必勝新宿西口公園付近西口ランプ入口で、コロナでやって来た小賀ら3人と合流し、車に同乗して三島邸に向った。一行荏原ランプ出て三島近く第二京浜国道曲がったあたりのガソリンスタンド立ち寄って洗車したその間に4人は故郷の家族への別れの手紙を投函した。 小賀の運転するコロナ同乗した一行10時13分頃に三島邸に到着した。小賀は玄関三島出迎え行き自分と小川古賀それぞれ宛て封筒入りの「命令書」と現金3万円ずつを手渡され車中で読むように命じられた。 軍刀仕様にした日本刀関孫六と革製アタッシュケース提げ三島助手席乗り込み、「命令書を読んだな、おれの命令絶対だぞ」、「あと3時間ぐらいで死ぬなんて考えられんな」などと言い一行乗せたコロナ陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地向かった10時40分頃、コロナ飯倉ランプ高速降り神宮外苑前に出たが、まだ時間早かったため外苑を2周した。この時、三島は、「これがヤクザ映画なら、ここで義理人情の“唐獅子牡丹”といった音楽がかかるのだが、おれたち意外に明るいなあ」と言った古賀は、「私たちに辛い気持や不安を起させないめだっただろうか。まず先生歌いはじめ、4人も合唱した歌ったあと、なにかじーんとくるものがあった」と供述している。やがてコロナ四谷見附交差点直進し靖国通り突っ切り陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門入っていった(詳細三島事件#経緯参照)。 必勝三島ら5人は益田兼利東部方面総監人質にとり、幕僚らと乱闘の末、予定時刻より30遅れて正面玄関前に自衛官らを集合させた。必勝隊長三島指示で、益田総監の前で、要求書読み聞かせ1155分頃、小川と共に総監室前バルコニーから檄文撒布し要求項目書かれ垂れ幕垂らした正午バルコニーから演説する三島の右背後に、必勝仁王立ちし、険し表情正面凝視していた。日光眩しさ眉根寄せて両目細め、唇を「ヘ」の字に結んだ必勝の顔は、ふだんの人懐っこい面影はなく、凄まじい形相となった12時10分頃、必勝は、演説終えた三島と共に、〈天皇陛下歳!〉を三唱し総監室に戻った三島切腹する前、必勝に「君はやめろ」と三言ばかり殉死思いとどまらせようとした。三島の左後方立った必勝は、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島頸部二太刀を振り降ろした切断半ばまでとなり、三島静かに前の方に傾いた。 まだ三島生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田三太刀目を振り降ろした介錯うまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し古賀一太刀振るって頸部の一枚残すという古式則って切断した三島遺体隣り合う位置正座し必勝は、切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて古賀一太刀介錯した。その後、小賀、小川古賀の3人は、三島必勝の両遺体仰向け直して制服をかけ、両人の首を並べた。 3人は総監拘束全て外し三島必勝の首の前で合掌した。黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。 12時20分過ぎ、小賀ら3人は総監と共に総監正面入口から廊下出て来て、その場牛込警察署員に現行犯逮捕された。12時23分、総監室内入った署長2人死亡確認した必勝享年25自分の名を、「まさかつ」でなく、「ひっしょう」と呼ぶことを好んだという。 必勝が遺した辞世の句は、 今日にかけて かねて誓ひ我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは — 森田必勝綴られていた。決起数日前の夜、東京は〈野分〉(台風)に見舞われたという。〈今日にかけて〉の〈かけて〉は、「賭けて」と「懸けて」に二通りの意味持ちどちらも命懸け」という点で相通じている。結句の〈かは〉は反語の意味合いもあるとされ、〈我が胸の思ひ〉を〈野分〉以外にも解ってくれる人もいるだろう、という意味にも解釈もできるとされる三島古賀ら3人に渡した命令書」の中には必勝についての以下のような遺言があった。 今回事件楯の会隊長たる三島計画立案命令し学生長森必勝参画したるものである三島自刃隊長としての責任当然のことなるも、森田必勝自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本憂国の志を抱く青年層代表して、身自ら範をたれて青年心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈行為である。三島ともあれ森田精神後世に向かつて恢弘せよ。 — 三島由紀夫命令書」

※この「昭和45年11月」の解説は、「森田必勝」の解説の一部です。
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