昭和45年11月
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1970年(昭和45年)11月3日、必勝ら5人は六本木4丁目のサウナ「ミスティー」に集合し、檄文と要求項目の原案を検討した。この時、三島は全員が自決するという計画を止めさせ、小賀、小川、古賀の3名に生き残ることを命じ、「連隊長を護衛し、連隊長を自決させないように連れて行く任務も誰かがやらなければならない。その任務を古賀、小賀、小川の3人に頼む。森田は介錯をさっぱりとやってくれ、余り苦しませるな」と言った。 必勝は、「俺たちは、生きているにせよ死んで行くにしろ一緒なんだ、またどこかで会えるのだから」、「(われわれは一心同体だから)あの世で魂はひとつになるんだ」と言った。三島は必勝にも前日に、「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」と自決を止めるように説得していた。 しかし必勝は、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません。先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と押し切り。その後に小賀ら3人も、「一緒に生きて先生の精神を継ごう」と説得し、三島も必勝が思い直すことを期待したが、必勝の決意は固く揺るがなかった。 11月4日から6日まで、三島と楯の会は陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースを行なった。この回は鉄道爆破の訓練をした。訓練終了後、必勝ら5人は、御殿場市内の御殿場館別館で開かれた慰労会で、他の会員や自衛隊員らと密かに別離を惜しんだ。必勝は小学唱歌「花」を歌った。 11月10日、必勝と小賀、小川、古賀の4人は、菊地勝夫1等陸尉との面会を口実に、市ヶ谷駐屯地に入り、32連隊隊舎前を下見して駐車場所を確認した。11月12日、必勝、小川、小賀の3人は、東武百貨店で開催された「三島由紀夫展」を見学した。その夜、スナック「パークサイド」で、必勝は小川に自分の介錯を依頼した。 この頃、「十二社グループ」の野田隆史は小林荘に泊まりに来て、別れ際にいつものように必勝を小便横丁の焼き鳥屋に誘うが、この時必勝は、「勘弁してくれ」と頭を振って断わるばかりであったという。野田を決起の同志に選ばなかったことを、必勝は心苦しく思っていたのかもしれないと推察されている。 11月14日、必勝ら5人は、サウナ「ミスティー」に集合した。32連隊隊舎前で待機させる記者2名をNHK記者・伊達宗克とサンデー毎日記者・徳岡孝夫にし、檄文と記念写真を決起当日に渡す主旨の説明が三島からなされ、5人で檄文の原案を検討した。 11月19日、必勝ら5人は、伊勢丹会館後楽園サウナ休憩室に集合し、32連隊長を拘束した後の自衛隊の集合までの時間や、三島の演説などの時間配分を打ち合わせした。必勝が「要求が通らない場合は連隊長を殺しても良いか」と訊ねると、「無傷で返さなければならない」と三島は答えた。その後、スナック「パークサイド」で、必勝は、「俺の介錯をしてくれるのは最大の友情だよ」と古賀に言った。 この頃、必勝は初代学生長の持丸博に電話し、「鮨でもおごらせてくれませんか」と誘った。すでに会社勤めをしていた持丸は、「お前におごってもらうわけにはいかないよ」と言ったが、高田馬場で会うことにし、一緒に鮨を食べた。以前と変わらず必勝はビールを飲みながら冗談を言い、女性の話や楯の会の話など無邪気に雑談したという。 11月21日、決行当日の11月25日に32連隊長の在室の有無を確認するため、三島の著書を届けることを口実に必勝が市ヶ谷駐屯地に赴くと、当日に宮田朋幸32連隊長が不在であることが判明した。必勝ら5人は、中華「第一楼」に集合し、協議の結果、拘束相手を東部方面総監に変更することに決定した。三島はすぐに益田兼利東部方面総監に電話を入れ、11月25日午前11時に面会約束をとりつけた。 同日と翌11月22日、必勝ら4人は三島から4千円を受け取り、新宿ステーションビルなどで、ロープ、バリケード構築の際に使う針金、ペンチ、垂れ幕用のキャラコ布、気つけ用のブランデー、水筒などを購入した。夜、必勝は、小賀が運転する車で横浜市内をドライブ中、「三島の介錯ができない時は頼む」と小賀に言った。 11月23日、必勝ら5人は、パレスホテル519号室に集合し、垂れ幕、檄文、鉢巻、辞世の句などを準備し、一連の行動の予行演習を行なった。三島がキャラコの布地に要求書を墨書する時に、22日・23日付の読売、産経、東京新聞と、24日付の夕刊フジが下敷きに用いられた。三島は「七生報国」(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意)と書いた日の丸の鉢巻を、必勝ら4人に配布した。 翌11月24日も、必勝ら5人はパレスホテルに集合し、再度の予行演習をし、前日と合わせ合計約8回練習を行なった。必勝は三島に、「頸動脈はどこにあるのですか」と質問し、三島は首の横を押してみせて教え、「ちゃんとうまくやれよ、串刺しにするなよ」と言った。 予行演習を終えた同日の昼14時頃、三島は徳岡孝夫と伊達宗克に、「明日午前11時に腕章とカメラを持ってくること、明日午前10時にまた連絡する」という主旨の電話をし、15時頃には、新潮社の担当編集者・小島喜久江に明日朝10時30分に小説原稿を自宅に取りに来るように電話を入れた。 その時間帯、必勝は1人で密かに故郷の四日市市に赴いていたとみられ、父母の墓参りをし、床屋に散髪に来ていたという目撃談がある。事件後に警視庁が調べた必勝の遺品の中に、24日付の三重県版の中日新聞があった。 東京にとんぼがえりした必勝は、夕方16時頃から三島ら4人と共に、新橋2丁目の料亭「末げん」の奥の間(五番八畳)で鳥鍋料理の「わ」のコースとビールで別れの会食をした。必勝ら学生は背筋をすっと伸ばして正座していたという。 食事中は明日の決起のことは話さず、映画女優や俳優の話などの雑談をした。三島は、「いよいよとなるともっとセンチメンタルになると思っていたがなんともない。結局センチメンタルになるのは我々を見た第三者なんだろうな」と言った。 20時頃に5人は店を出て、小賀の運転する車で帰宅の途についた。車中三島は、「総監は立派な人だから申し訳ないが目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言った。また、もしも総監室に入る前に自衛隊員らに察知され捕まった場合は、5人全員で舌を噛んで死ぬしかないとも話した。 三島は大田区南馬込の自宅に帰宅し、小川と古賀は、小賀の戸塚の下宿に宿泊した。3人は介錯のことを話し合い、小川は、必勝の介錯ができない場合の代わりを剣道経験豊富な小賀に依頼した。しかし3人の間では、介錯は予定者が実行できない時には、三島、必勝を問わずに、残りの誰かが介錯すると決めていた。 必勝は西新宿4丁目の小林荘8号室の下宿に帰宅後、同居する田中健一を誘って、近くの食堂「三枝」に行って23時頃まで酒を飲んだ。必勝はその時に、三島から託された赤インクのメモと封筒2通を取り出し、「明日の市ヶ谷会館の例会には、先生もおれも出られない。ふたり(徳岡孝夫と伊達宗克)が来たら、これを渡してくれ」と田中に預けた。田中は黙って封筒を受け取り、必勝と下宿に戻った。 11月25日、午前7時に小林荘の廊下のピンク電話が鳴り、必勝は起床した。前もって必勝は古賀に「起こしてくれ」と依頼していた。田中は必勝よりも遅く起床した。いつもは制服の下はパンツ姿の必勝が、白い褌を締め始めていた。田中は背後に回って、褌の結び目をしっかりと直してやった。 秋晴れの朝の9時頃、必勝は新宿西口公園付近の西口ランプ入口で、コロナでやって来た小賀ら3人と合流し、車に同乗して三島邸に向った。一行は荏原ランプを出て、三島邸近くの第二京浜国道を曲がったあたりのガソリンスタンドに立ち寄って洗車した。その間に4人は故郷の家族への別れの手紙を投函した。 小賀の運転するコロナに同乗した一行が10時13分頃に三島邸に到着した。小賀は玄関に三島を出迎えに行き、自分と小川、古賀のそれぞれ宛ての封筒入りの「命令書」と現金3万円ずつを手渡され、車中で読むように命じられた。 軍刀仕様にした日本刀・関孫六と革製アタッシュケースを提げた三島が助手席に乗り込み、「命令書を読んだな、おれの命令は絶対だぞ」、「あと3時間ぐらいで死ぬなんて考えられんな」などと言い、一行を乗せたコロナは陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった。 10時40分頃、コロナは飯倉ランプで高速を降り、神宮外苑前に出たが、まだ時間が早かったため外苑を2周した。この時、三島は、「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の“唐獅子牡丹”といった音楽がかかるのだが、おれたちは意外に明るいなあ」と言った。 古賀は、「私たちに辛い気持や不安を起させないためだったのだろうか。まず先生が歌いはじめ、4人も合唱した。歌ったあと、なにかじーんとくるものがあった」と供述している。やがてコロナは四谷見附の交差点を直進し、靖国通りを突っ切り、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の正門を入っていった(詳細は三島事件#経緯を参照)。 必勝と三島ら5人は益田兼利東部方面総監を人質にとり、幕僚らと乱闘の末、予定時刻より30分遅れて、正面玄関前に自衛官らを集合させた。必勝は隊長・三島の指示で、益田総監の前で、要求書を読み聞かせ、11時55分頃、小川と共に総監室前バルコニーから檄文を撒布し、要求項目の書かれた垂れ幕を垂らした。 正午、バルコニーから演説する三島の右背後に、必勝は仁王立ちし、険しい表情で正面を凝視していた。日光の眩しさに眉根を寄せて両目を細め、唇を「ヘ」の字に結んだ必勝の顔は、ふだんの人懐っこい面影はなく、凄まじい形相となった。 12時10分頃、必勝は、演説を終えた三島と共に、〈天皇陛下万歳!〉を三唱し、総監室に戻った。三島は切腹する前、必勝に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。三島の左後方に立った必勝は、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。 まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした。介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。 三島の遺体と隣り合う位置に正座した必勝は、切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島と必勝の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた。 3人は総監の拘束を全て外し、三島と必勝の首の前で合掌した。黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。 12時20分過ぎ、小賀ら3人は総監と共に総監室正面入口から廊下に出て来て、その場で牛込警察署員に現行犯逮捕された。12時23分、総監室内に入った署長が2人の死亡を確認した。 必勝は享年25。自分の名を、「まさかつ」でなく、「ひっしょう」と呼ぶことを好んだという。 必勝が遺した辞世の句は、 今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは — 森田必勝 と綴られていた。決起の数日前の夜、東京は〈野分〉(台風)に見舞われたという。〈今日にかけて〉の〈かけて〉は、「賭けて」と「懸けて」に二通りの意味を持ち、どちらも「命懸け」という点で相通じている。結句の〈かは〉は反語の意味合いもあるとされ、〈我が胸の思ひ〉を〈野分〉以外にも解ってくれる人もいるだろう、という意味にも解釈もできるとされる。 三島が古賀ら3人に渡した「命令書」の中には、必勝についての以下のような遺言があった。 今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かつて恢弘せよ。 — 三島由紀夫「命令書」
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