益田兼利とは? わかりやすく解説

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益田兼利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/18 02:09 UTC 版)

益田 兼利
益田兼利(陸幕第5部長当時)
生誕 1913年9月17日
日本 熊本県
死没 (1973-07-24) 1973年7月24日(59歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
警察予備隊
保安隊
陸上自衛隊
軍歴 1934 - 1945(日本陸軍)
1952 - 1952(予備隊)
1952 - 1954(保安隊)
1954 - 1970(陸自)
最終階級 陸軍少佐(日本陸軍)
陸将(陸自)
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益田 兼利(ました かねとし、1913年大正2年)9月17日 - 1973年昭和48年)7月24日)は、日本陸軍軍人陸上自衛官。陸上自衛隊第2師団師団長や東部方面総監を歴任。陸軍士官学校第46期卒業、陸軍大学校第54期首席。元東部方面総監、綜警常駐警備(現・ALSOK常駐警備)元代表取締役社長益田兼弘の実父。

人物

熊本県出身。終戦直後の1945年(昭和20年)8月17日、益田は陸軍士官学校同期の晴気誠少佐の自決に立ち会っている。晴気少佐は参謀本部作戦班在職時、サイパン島防衛計画の主務者であったが、作戦指導の失敗がサイパン島の失落、ひいては日本の敗戦を招いたとして、強い自責の念に駆られての自決であった。

益田は陸上自衛隊入隊後、将来の陸上幕僚長候補の逸材と見なされていたが、東部方面総監在職時、1970年11月25日に、三島由紀夫森田必勝ら「楯の会」5名が起こした三島事件人質となってしまった。この時、三島と森田の自決にも立ち会っている。責任を取る意味で、事件直後から当時の中曽根康弘防衛庁長官に対して辞表を提出していたが、中曽根は「行政上、幹部に責任を負わせる問題ではない」として受理しなかった。しかし本人の意思が固いこと、自民党からも責任を問う声が出たことなどから同年12月18日の閣議で辞職が了承された[1]

後年に子・益田兼弘も陸上自衛隊に在職し、親子二代で同一の師団長及び方面総監を歴任した。

略歴

鹿本中学陸軍士官学校予科を経て陸軍士官学校に入校

栄典

  • 勲二等瑞宝章 - 1973年(昭和48年)7月24日

脚注

  1. ^ 三島事件 益田総監が辞職『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月18日夕刊 3版 1面
  2. ^ 『官報』本紙第7717号(昭和27年9月26日)
  3. ^ 『官報』本紙第13979号(昭和48年7月31日)
  4. ^ 『官報』本紙第13978号(昭和48年7月30日)

参考文献

  • 杉原裕介/杉原剛介『三島由紀夫と自衛隊 秘められた友情と信頼』(並木書房、1997年)ISBN 4-89063-087-2
  • 陸上自衛隊20年年表(朝雲新聞社刊)
  • 『日本陸海軍総合事典 第2版』秦郁彦編、東京大学出版会、2005年。

関連項目

先代
田中兼五郎
東部方面総監
第8代:1969年 - 1970年
次代
中村龍平



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