楯の会へ
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1968年(昭和43年)7月、同級生で同じ全国学協の伊藤邦典(「祖国防衛隊」〈のち楯の会〉1期生)から誘われ、三島由紀夫が引率する第2回の自衛隊体験入隊に参加し、7月25日から8月23日まで陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で軍事訓練を受けた。同じ回にはやはり伊藤から紹介を受けた古賀浩靖(神奈川大学法学部)もいた。 三島先生と同じかまの飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら、こういう人が文化人の中にもいたのかと心強かったし、先生の真心が感じられた。ほんとうに信頼できる人だと思った。生命は日本と日本民族の源流からわき出た岩清水のようなものです。生命をかけて行動するのはその源流に戻ること。源流とは天皇だと考えた。先生とともに行動することは、生命をかけることだった。 — 小賀正義「裁判陳述」 小賀はこの体験入隊の少し前にも、学生同志約15人と練馬駐屯地に体験入隊したことがあった。その時に教官や一般自衛官に、憲法9条や天皇についての意見を訊ねると、「公務員だから」と言って話題を避けられた。 楯の会 2期生となった小賀は、1969年(昭和44年)春頃から第5班の班長になった。板橋警察署の道場や皇宮警察の済寧館で居合や剣道の稽古に励み、5月頃からは楯の会の主要精鋭メンバー「決死隊」の1人として、三島から日本刀を渡された。 1970年(昭和45年)4月3日、小賀は千代田区の帝国ホテルのコーヒーショップで三島から、「これからもずっとやってくれるか?」と、最後まで行動を共にする意志があるかを打診され、沈思黙考の末に承諾した(詳細は三島事件#三島由紀夫と自衛隊を参照)。
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小川は森田から誘われて、三島由紀夫が引率する第3回の自衛隊体験入隊に田中健一と共に参加し、1969年(昭和44年)3月1日から29日まで陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で軍事訓練を受けた。 三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。日本をこよなく愛している本当の日本人に違いないと思い、三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生についていけば必ず日本のために働けるときがくるだろうと考えました。 — 小川正洋「裁判陳述」 楯の会 3期生となった小川は、板橋警察署の道場や皇宮警察の済寧館で居合や剣道の稽古に励み、5月頃からは楯の会の主要精鋭メンバー「決死隊」の1人として、三島から日本刀を渡された。 1970年(昭和45年)4月10日、第7班の班長となっていた小川は、三島邸に呼ばれ、最後まで行動を共にする意志があるかを打診されて沈思黙考の末に承諾した(詳細は三島事件#三島由紀夫と自衛隊を参照)。 同年5月から、小川は恋人の圭映子と同棲するようになり、三島事件の前日の11月24日に入籍した。事件当日の11月25日、三島と森田が割腹自決した後、小川は、小賀正義(第5班班長)、古賀浩靖(第5班副班長)と共に、拘束していた益田兼利東部方面総監を解放し、自決させないよう最後まで護衛する任務を遂行した(詳細は三島事件#経緯を参照)。
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1968年(昭和43年)7月、大学の後輩で同じ全国学協の伊藤邦典(「祖国防衛隊」〈のち楯の会〉1期生)から誘われ、三島由紀夫が引率する第2回の自衛隊体験入隊に参加し、7月25日から8月23日まで陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で軍事訓練を受けた。同じ回には、やはり伊藤から紹介を受けた小賀正義もいた。 楯の会 2期生となった古賀は、1969年(昭和44年)春頃から第5班の副班長になった(班長は小賀)。1970年(昭和45年)3月に大学を卒業した古賀は、楯の会の活動と並行して、司法試験の受験勉強を始めた。 1970年(昭和45年)9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り、古賀は、小賀正義と第2代学生長の森田必勝(1期生、第1班班長)から西新宿3丁目の深夜スナック「パークサイド」に誘われ、小賀から、「三島先生と生死をともにできるか」と問われた。 古賀は、詳細はまだ解らなかったが、いよいよ生命を賭けて決起するんだと思い、楯の会に入会以来、日本を覚醒するため生命を捨てる覚悟でいたため、その問いに驚くことはなかった。森田にも、「市ヶ谷部隊の中で行動する」「浩ちゃん、命をくれないか」と頼まれた古賀は、「お願いします」と頭を下げて承諾し、同志に加えてくれたことを感謝した。 9月9日、古賀は三島から銀座4丁目のフランス料理店に招かれ、決行日などの具体的な計画案(11月25日の例会後のヘリポート訓練中に32連隊長・宮田朋幸1佐を人質にする)を聞かされた。三島は、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」、「ここまで来たら、地獄の三丁目だよ」と言った(詳細は三島事件#三島由紀夫と自衛隊を参照)。 10月初め、古賀は死ぬ前に故郷の北海道の山河を今一度見ておきたいと思った。そのことを三島に話すと、「旅費の半額を出させてくれ」と、北海道に旅立つ古賀のために1万円をくれた。三島事件の前日の11月24日、古賀は両親宛ての手紙に「自分は憲法と刺し違える」と書いた。
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