楯の会へとは? わかりやすく解説

楯の会へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/17 05:42 UTC 版)

小賀正義」の記事における「楯の会へ」の解説

1968年昭和43年7月同級生で同じ全国学協伊藤邦典(「祖国防衛隊」〈のち楯の会1期生)から誘われ三島由紀夫引率する第2回自衛隊体験入隊参加し7月25日から8月23日まで陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地軍事訓練受けた。同じ回にはやはり伊藤から紹介受けた古賀浩靖神奈川大学法学部)もいた。 三島先生と同じかまの飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら、こういう人が文化人中にもいたのかと心強かったし、先生真心感じられた。ほんとうに信頼できる人だと思った生命日本日本民族源流からわき出た岩清水のようなものです。生命をかけて行動するのはその源流に戻ること。源流とは天皇だと考えた先生とともに行動することは、生命をかけることだった。 — 小賀正義裁判陳述」 小賀はこの体験入隊の少し前にも、学生同志15人と練馬駐屯地体験入隊したことがあった。その時教官や一自衛官に、憲法9条天皇についての意見訊ねると、「公務員だから」と言って話題避けられた。 楯の会 2期生となった小賀は、1969年昭和44年)春頃から第5班班長になった板橋警察署道場皇宮警察済寧館居合剣道稽古励み5月頃からは楯の会の主要精鋭メンバー決死隊」の1人として三島から日本刀渡された。 1970年昭和45年4月3日、小賀は千代田区帝国ホテルコーヒーショップで三島から、「これからもずっとやってくれるか?」と、最後まで行動共にする意志があるかを打診され、沈思黙考の末に承諾した詳細三島事件#三島由紀夫自衛隊参照)。

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楯の会へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 04:53 UTC 版)

小川正洋」の記事における「楯の会へ」の解説

小川森田から誘われて三島由紀夫引率する第3回自衛隊体験入隊田中健一と共に参加し1969年昭和44年3月1日から29日まで陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地軍事訓練受けた三島先生は、如何なるときでも学生先頭立たれ訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流しての上ほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島道楽でもなんでもないまた、文学者としての三島由紀夫でもない日本こよなく愛している本当日本人違いない思い三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生についていけば必ず日本のために働けるときがくるだろうと考えました。 — 小川正洋裁判陳述楯の会 3期生となった小川は、板橋警察署道場皇宮警察済寧館居合剣道稽古励み5月頃からは楯の会の主要精鋭メンバー決死隊」の1人として三島から日本刀渡された。 1970年昭和45年4月10日、第7班の班長となっていた小川は、三島邸に呼ばれ最後まで行動共にする意志があるかを打診されて沈思黙考の末に承諾した詳細三島事件#三島由紀夫自衛隊参照)。 同年5月から、小川恋人の圭映子同棲するようになり、三島事件前日11月24日入籍した事件当日11月25日三島森田割腹自決した後、小川は、小賀正義(第5班班長)、古賀浩靖(第5班班長と共に拘束していた益田兼利東部方面総監解放し自決させないよう最後まで護衛する任務遂行した詳細三島事件#経緯参照)。

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楯の会へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 13:53 UTC 版)

古賀浩靖」の記事における「楯の会へ」の解説

1968年昭和43年7月大学後輩で同じ全国学協伊藤邦典(「祖国防衛隊」〈のち楯の会1期生)から誘われ三島由紀夫引率する第2回自衛隊体験入隊参加し7月25日から8月23日まで陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地軍事訓練受けた。同じ回には、やはり伊藤から紹介受けた小賀正義もいた。 楯の会 2期生となった古賀は、1969年昭和44年)春頃から第5班の副班長になった班長は小賀)。1970年昭和45年3月大学卒業した古賀は、楯の会活動並行して司法試験受験勉強始めた1970年昭和45年9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り古賀は、小賀正義第2代学生長の森必勝1期生、第1班班長)から西新宿3丁目の深夜スナック「パークサイド」に誘われ、小賀から、「三島先生生死をともにできるか」と問われた。 古賀は、詳細はまだ解らなかったが、いよいよ生命賭けて決起するんだと思い楯の会入会以来日本覚醒するため生命捨て覚悟でいたため、その問いに驚くことはなかった。森田にも、「市ヶ谷部隊の中で行動する」「浩ちゃん、命をくれないか」と頼まれ古賀は、「お願いします」と頭を下げて承諾し同志加えてくれたことを感謝した9月9日古賀三島から銀座4丁目のフランス料理店に招かれ決行日などの具体的な計画案11月25日例会後のヘリポート訓練中に32連隊長宮田朋幸1佐を人質にする)を聞かされた。三島は、「自衛隊員中に行動共にするものがでることは不可能だろういずれにしても自分は死ななければならない」、「ここまで来たら、地獄三丁目だよ」と言った詳細三島事件#三島由紀夫自衛隊参照)。 10月初め古賀は死ぬ前に故郷北海道の山河を今一度見ておきたい思ったそのこと三島に話すと、「旅費半額を出させてくれ」と、北海道旅立つ古賀のために1万円をくれた。三島事件前日11月24日古賀両親宛ての手紙に「自分憲法刺し違えると書いた。

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