「楯の会」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 00:42 UTC 版)
祖国防衛隊は組織規模を縮小せざるを得なくなり、隊の名称を万葉集防人歌と、歌人・橘曙覧の2首の中に出てくる「大皇の醜の御楯」にちなんで「楯の会」と変え、中核体のみの少数精鋭部隊となった。当初は金子弘道(1期生)の提案による「御楯会(みたてかい)」も候補に上がったが、漢字だけだと固いイメージがあり、日本語の柔らかい助詞「の」を入れた方がいいと三島が進言し討議の結果、「楯の会」と決定された。 私の民兵の構想は、話をする人毎に嗤はれた。日本ではそんなものはできつこないといふのである。そこで私は自分一人で作つてみせると広言した。それが「楯の会」の起りである。 — 三島由紀夫「『楯の会』のこと」 10月5日、虎ノ門の国立教育会館での例会で、各人オーダーメイドの制服が2期生らにも配られた。隊長・三島と初代学生長・持丸博、会員約50名が制服姿で整列し、「楯の会」の正式結成式が密かに行われた。この秋から主要会員約10名が中山正敏の指導で空手の稽古を始めた。 10月21日の国際反戦デーの日、三島と楯の会会員は、山本1佐と陸上自衛隊調査学校の学生らと共に、新左翼デモ(新宿騒乱)の状況を把握するため、火炎瓶や石が飛び交うデモ隊の中に潜入して組織リーダーが誰かなどを調査した。 新左翼の激しい暴動を鎮圧する自衛隊治安出動を期待した三島は、その時に楯の会も斬り込み隊として先んじて加勢し、それに乗じた自衛隊国軍化・憲法9条改正を超法規的に認めさせて実現する計画を構想し始めた。 騒乱の続く夜、赤坂の拠点に会員たちを集結させた三島は、この日の総括と決断を山本1佐に願い出た。まさに今こそ決起行動に出るべきと主張し詰め寄る会員もいたが、まだ治安出動はないと見込んだ山本1佐は演習会の解散を進言した。落胆した三島は会員たちを国立劇場へ移動させていった。楯の会会員たちは、すでに日本が間接侵略状態にあると考えていた。午前0時過ぎ、警視庁は暴徒に騒乱罪を適用した。 この頃、会員を広く募集するため、雑誌『平凡パンチ』のグラビアに三島と会員たちの制服姿の写真が掲載された。写真撮影は旧古河庭園で行われ、V字型に整列するなど、様々なポーズのグラビアが掲載された。11月30日には、銀座の三笠会館での例会の後、パレードも行なった。 三島は楯の会の本質を隠すために、わざと軽い雑誌社を誘導してファッション・漫画的に扱われるようにし、各新聞にもカリカチュアライズした形で楯の会が報道されるように仕向けていた。『平凡パンチ』の発売翌日から電話の応募が殺到し、中には60代の老人が、「前の戦争ではお役に立てなかったが、何かお役に立つことをしたい」と運転手か炊事係で応募してきたという。持丸博は約50人と面接したが、その半数は不合格となった。 12月1日、三島は赤坂の乃木会館で、小賀正義(2期生)や古賀浩靖(2期生)の所属する東京都学生自治体連絡協議会・関東学生自治体連絡協議会主催の会合に出席し、『日本の歴史と文化と伝統に立つて』という講演をした。 12月21日から4日間、品川の常盤軒ビルで山本1佐による遊撃戦概説、図上演習の遊撃戦闘一般要領、遊撃戦運用、遊撃戦闘要領の講義が、三島を含めた楯の会約40名に行われた。講義の休憩中、森田必勝(1期生)から、「日本でいちばん悪い奴は誰でしょう? 誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか?」と訊ねられた山本1佐は、「死ぬ覚悟がなければ人は殺せない。私にはまだ真の敵が見えていない」と答えた。 12月の年末、三島邸に楯の会の主要会員と山本1佐らが集まり、1年間の反省会と翌年への構想が討議され、楯の会と綜合警備保障株式会社や猟友会との連携計画が模索された。やがて話題が間接侵略対処、治安出動などに及び、「あなたは一体いつ起つのか」という意図で三島に問われた山本1佐が、暴徒が皇居に乱入して天皇が侮辱された時が、治安出動の際だという主旨で答えると、「その時は、あなたのもとで、中隊長をやらせてもらいます」と三島が哄笑した。 三島は、山本1佐など旧陸軍関係者や政府高官との接触を通じ、治安出動の可能性の感触を得て、楯の会会員と共に起つクーデター計画を構想していた。 治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私(山本1佐)の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出動し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、断固阻止する。このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。 — 山本舜勝「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」
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