「楯の会」学生長へ
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1969年(昭和44年)2月1日、必勝は論争ジャーナル組に完全に傾き、小川正洋、野田隆史、田中健一、鶴見友昭、西尾俊一の5人と共に日学同を正式に脱退した。日学同は追随者を増やさないために彼らを名目上、除籍処分とした。 必勝は日学同を脱退後、田中健一の下宿先である新宿区十二社(西新宿4丁目)にあるアパート小林荘8号室に住み、他の脱退メンバーも頻繁に泊まりに来るようになった。6人は「十二社グループ」と呼ばれ、テロルも辞さない一匹狼の集団であった。 田中健一は30万円もする高価な脇差を買ってきて、必勝と共に切腹の練習をした。この頃、「お前は切腹できるか」と必勝から問われた者もいるという。田中は稽古中に実際に脇差の先を腹に押し当ててしまい、傷痕はのちにも残ってしまった。 同年2月15日に発刊された楯の会機関誌『楯』の創刊号には、「永遠の恋人」と題した必勝の一文が掲載された。この〈恋人〉とは、必勝が愛吟していた徳富蘇峰の歌にある「神のつくりた日本国」のことである。 ぼくは二十三年間の間、ただ一人の女性に恋をしている。彼女はぼくが生まれ落ちると同時に、あたかも天の摂理でもあるかのように、ぼくの永遠の恋人としてぼくを育み、愛してきた。ぼくはその愛に応えようと一心に努力している。愛するということは非常に新鮮なものであり、魅力あるものである。恋愛そのものに没頭し、全てを忘れてしまうこともある。そしてそれ以上に愛することには必ず苦悩が伴うことも知ってきた。この苦悩をのりこえ、この恋愛に真剣に取りくもうと思っている。 — 森田必勝「永遠の恋人」 同年2月19日、山本舜勝1佐の指導の下、板橋区の松月院で合宿し、楯の会の特別訓練が23日まで行われた。同年4月、必勝は楯の会の活動とは別に、「十二社グループ」のメンバーと政治結社「祖国防衛隊」(三島の祖国防衛隊と同名)を結成し、隊長となった(副隊長は小川正洋)。必勝の縁者の倉田賢司(立命館大学1年)も加えて7人となった。 同年3月1日から、三島が引率する第3回の自衛隊体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で29日まで行われ、この回で必勝の仲間の鶴見友昭、小川正洋、田中健一が参加して楯の会会員となった。9日から15日には、体験入隊経験者を対象とする上級のリフレッシャーコースが行われ、これに必勝も引率者として参加し、中核体は精鋭されていった。 この回の体験入隊を取材したロンドンの『ザ・タイムズ』記者のヘンリー・スコット=ストークスからインタビューを受けた必勝は、「なぜ楯の会に入ったのか」という質問に、「三島に随いていこうと思った。……三島は天皇とつながっているから」と答えた。 同年5月頃から、三島の指示により楯の会の7、8名が居合を習い始め、9名に日本刀が渡され、持丸博、倉持清、小川正洋、小賀正義らと並んで、必勝もその「決死隊」メンバーの中にいた。 同年5月13日、三島が東大教養学部教室で開催された全共闘との討論会に出席した。この際、警視庁から警護の申し出があったが三島はそれを断わり、楯の会会員の同行者もいらないと1人で赴いたが、持丸博ら10人は、三島には内緒で会場の中に潜伏し、前から2列目に並んだ。護衛には必勝もいた。 同年6月下旬、三島と山本1佐と5名の自衛官が山の上ホテルで会食。皇居死守の具体的な計画や総理大臣官邸での演習計画について話し、三島が「すでに決死隊を作っている」と決断を迫るが、山本1佐は「まず白兵戦の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と制し賛同が得られずに終わった。7月に山本1佐は陸上自衛隊調査学校副校長に昇格し、次第に楯の会の指導協力に時間を割かなくなっていった。 同年7月26日から8月23日まで、三島が引率する第4回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われた。必勝の仲間の野田隆史、西尾俊一、倉田賢司も参加し、楯の会会員となった。この頃から、楯の会の主要古参会員の中辻和彦、万代潔らと三島との間の齟齬が表面化し、中辻が、論争ジャーナルの資金源を田中清玄に求めたことが決定的な亀裂となり、中辻、万代ら数名が8月下旬に楯の会を退会した。 さらに、中辻と親しい持丸博も、どちらの側に付くか迷ったあげく、論争ジャーナルの編集と楯の会の活動の両方を辞めることに決め、楯の会を去ることになった。三島は、「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と何度も説得して引き留めたが、持丸はそれを辞退した。 10月12日、楯の会の10月例会で持丸博(初代学生長)が正式に退会となり、それに伴い、必勝が楯の会の第二代学生長に就任した。論争ジャーナル編集部内にあった楯の会事務所も、十二社の必勝の下宿先の住所となった。持丸の後を引き継ぎ、新人の面接も担当する必勝は、学生長としての月々の活動費10万円を三島から支給されるようになった。 同年10月21日、三島と必勝ら楯の会会員は、昨年と同様に、国際反戦デーの左翼デモの状況を視察するが、左翼は機動隊に簡単に鎮圧され、もはや楯の会の出る幕もなく、自衛隊の治安出動に乗じた憲法改正、自衛隊国軍化への道がないことを認識した。 同年10月31日、三島宅で行われた楯の会の班長会議で、10・21が不発に終わったことで今後の計画をどうするかが討議された。必勝は、「楯の会と自衛隊で国会を包囲し、憲法改正を発議させたらどうだろうか」と提案したが、武器の調達の問題や、国会会期中などで実行は困難と三島は返答した。 同年11月3日の15時から、国立劇場屋上で、陸上自衛隊富士学校前校長・碇井準三元陸将を観閲者に迎えて、楯の会結成一周年パレードが行われた。白地に兜を赤く染めた隊旗を小川正洋が掲げ、学生長の必勝が先頭になって行進した。この日に三島が発表した評論に、必勝との問答と思われるものがある。 最近私は一人の学生にこんな質問をした。「君がもし、米軍基地闘争で日本人学生が米兵に殺される現場に居合はせたらどうするか?」 青年はしばらく考へたのち答へたが、それは透徹した答へであつた。「ただちに米兵を殺し、自分はその場で自決します」(中略)この簡潔な答へは、複雑な論理の組合せから成立つてゐる。すなはち、第一に、彼が米兵を殺すのは、日本人としてのナショナルな衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナルな衝動による殺人といへども、殺人の責任は直ちに自ら引受けて、自刃すべきだ、と考へる。これは法と秩序を重んずる人間的倫理による決断である。第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持つてゐる。(中略) 彼はただちに自刃することによつて、自分は全学連学生の思想に共鳴して米兵を殺したのではなく、日本人としてさうしたのだ、といふことを、かれら群衆の保護を拒否しつつ、自己証明するのである。第四に、この自刃は、包括的な命名判断(ベネンヌンクスウルタイル)を成立させる。すなはちその場のデモの群衆すべてを、ただの日本人として包括し、かれらを日本人と名付ける他はないものへと転換させるであらうからである。(中略)私が、精神の戦ひにのみ剣を使ふとはさういふ意味である。 — 三島由紀夫「『国を守る』とは何か」 同年11月16日、新左翼による佐藤首相訪米阻止闘争が行われたが、再び機動隊に簡単に鎮圧され自衛隊の治安出動は完全に絶望的となった。同年12月22日、三島と必勝ら楯の会は、陸上自衛隊習志野駐屯地で、空挺団の落下傘降下の予備訓練を行なうが、楯の会「決死隊」メンバーと、山本舜勝1佐ら自衛官合同とのクーデター計画は、山本1佐が二の足を踏み続けて実行不可能となっていた。
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