「楯の会」学生長へとは? わかりやすく解説

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「楯の会」学生長へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 02:31 UTC 版)

森田必勝」の記事における「「楯の会」学生長へ」の解説

1969年昭和44年2月1日必勝論争ジャーナル組に完全に傾き小川正洋野田隆史、田中健一鶴見友昭、西尾俊一の5人と共に日学同正式に脱退した日学同追随者を増やさないために彼らを名目上除籍処分とした。 必勝日学同脱退後田中健一下宿先である新宿区十二社西新宿4丁目)にあるアパート小林8号室に住み、他の脱退メンバー頻繁に泊まりに来るようになった。6人は「十二社グループ」と呼ばれテロル辞さない一匹狼集団であった田中健一30万円もする高価な脇差買ってきて、必勝と共に切腹練習をした。この頃、「お前は切腹できるか」と必勝から問われた者もいるという。田中稽古中に実際に脇差の先を腹に押し当ててしまい、傷痕はのちにも残ってしまった。 同年2月15日発刊され楯の会機関誌』の創刊号には、「永遠の恋人」と題した必勝一文掲載された。この〈恋人〉とは、必勝愛吟していた徳富蘇峰の歌にある「神のつくりた日本国」のことである。 ぼくは二十三年間の間、ただ一人女性恋をしている。彼女はぼくが生まれ落ちる同時にあたかも天の摂理でもあるかのように、ぼくの永遠の恋人としてぼくを育み愛してきた。ぼくはその愛に応えよう一心に努力している。愛するということは非常に新鮮なものであり、魅力あるものである恋愛そのもの没頭し全て忘れてしまうこともある。そしてそれ以上愛することには必ず苦悩が伴うことも知ってきた。この苦悩のりこえ、この恋愛に真剣に取りくもうと思っている。 — 森田必勝永遠の恋人」 同年2月19日山本舜勝1佐の指導の下、板橋区松月院合宿し楯の会特別訓練23日まで行われた同年4月必勝楯の会活動とは別に、「十二社グループ」のメンバー政治結社祖国防衛隊」(三島祖国防衛隊同名)を結成し隊長となった副隊長小川正洋)。必勝縁者倉田賢司(立命館大学1年)も加えて7人となった同年3月1日から、三島引率する第3回自衛隊体験入隊陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地29日まで行われ、この回で必勝仲間鶴見友昭、小川正洋田中健一参加して楯の会会員となった9日から15日には、体験入隊経験者対象とする上級のリフレッシャーコースが行われ、これに必勝引率者として参加し中核体は精鋭されていった。 この回の体験入隊取材したロンドンの『ザ・タイムズ』記者ヘンリー・スコット=ストークスからインタビュー受けた必勝は、「なぜ楯の会入ったのか」という質問に、「三島に随いていこう思った。……三島天皇つながっているから」と答えた同年5月頃から、三島指示により楯の会7、8名が居合習い始め、9名に日本刀渡され持丸博倉持清、小川正洋小賀正義らと並んで必勝もその「決死隊メンバー中にいた。 同年5月13日三島東大教養学部教室開催され全共闘との討論会出席したこの際警視庁から警護申し出があったが三島はそれを断わり楯の会会員同行者いらない1人赴いたが、持丸博10人は、三島には内緒会場中に潜伏し、前から2列目に並んだ護衛には必勝もいた。 同年6月下旬三島山本1佐と5名の自衛官山の上ホテル会食皇居死守具体的な計画総理大臣官邸での演習計画について話し三島が「すでに決死隊作っている」と決断を迫るが、山本1佐は「まず白兵戦訓練をして、その日備えるべきだ。それも自ら突入するではなく暴徒乱入阻止するために」と制し賛同得られずに終わった7月山本1佐は陸上自衛隊調査学校副校長昇格し次第楯の会指導協力時間を割かなくなっていった。 同年7月26日から8月23日まで、三島引率する第4回体験入隊陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地行われた必勝仲間野田隆史、西尾俊一倉田賢司も参加し楯の会会員となったこの頃から、楯の会の主要古参会員中辻和彦万代潔らと三島との間の齟齬表面化し中辻が、論争ジャーナル資金源田中清玄求めたことが決定的な亀裂となり、中辻万代数名8月下旬楯の会退会した。 さらに、中辻親し持丸博も、どちらの側に付くか迷ったあげく、論争ジャーナル編集楯の会活動両方辞めることに決め楯の会を去ることになった三島は、「楯の会仕事専念してくれれば生活を保証する」と何度も説得して引き留めたが、持丸はそれを辞退した10月12日楯の会10月例会持丸博初代学生長)が正式に退会となり、それに伴い必勝楯の会第二学生長に就任した論争ジャーナル編集部にあった楯の会事務所も、十二社必勝下宿先住所となった持丸後を引き継ぎ新人面接担当する必勝は、学生としての月々活動費10万円を三島から支給されるようになった同年10月21日三島必勝楯の会会員は、昨年同様に国際反戦デー左翼デモ状況視察するが、左翼機動隊簡単に鎮圧され、もはや楯の会の出る幕もなく、自衛隊治安出動乗じた憲法改正自衛隊国軍化への道がないことを認識した同年10月31日三島宅で行われた楯の会班長会議で、1021不発終わったことで今後の計画どうするかが討議された。必勝は、「楯の会自衛隊国会包囲し憲法改正発議させたらどうだろうか」と提案したが、武器調達問題や、国会会期中などで実行は困難と三島返答した同年11月3日15時から、国立劇場屋上で、陸上自衛隊富士学校校長・碇井準三元陸将観閲者に迎えて楯の会結成一周年パレードが行われた。白地に兜を赤く染めた隊旗小川正洋掲げ学生長の必勝先頭になって行進した。この日に三島発表した評論に、必勝との問答思われるものがある。 最近私は一人学生にこんな質問をした。「君がもし、米軍基地闘争日本人学生米兵殺される現場居合はせたらどうするか?」 青年はしばらく考へたのち答へたが、それは透徹し答へであつた。「ただちに米兵殺し自分その場自決します」(中略)この簡潔な答へは、複雑な論理組合せから成立つてゐる。すなはち、第一に、彼が米兵を殺すのは、日本人としてのナショナル衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナル衝動による殺人といへども、殺人責任直ちに自ら引受けて自刃すべきだ、と考へる。これは法と秩序重んずる人間的倫理による決断である。第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持つてゐる。(中略) 彼はただちに自刃することによつて、自分全学連学生思想共鳴して米兵殺したではなく日本人としてさうしたのだ、といふことを、かれら群衆保護拒否しつつ、自己証明するのである第四に、この自刃は、包括的な命名判断(ベネンヌンクスウルタイル)を成立させる。すなはちその場デモ群衆すべてを、ただの日本人として包括し、かれらを日本人名付ける他はないものへと転換させるであらうからである。(中略)私が、精神の戦ひにのみ剣を使ふとはさういふ意味である。 — 三島由紀夫「『国を守る』とは何か」 同年11月16日新左翼による佐藤首相訪米阻止闘争が行われたが、再び機動隊簡単に鎮圧され自衛隊治安出動は完全に絶望的となった同年12月22日三島必勝楯の会は、陸上自衛隊習志野駐屯地で、空挺団の落下傘降下予備訓練行なうが、楯の会決死隊メンバーと、山本舜勝1佐ら自衛官合同とのクーデター計画は、山本1佐が二の足踏み続けて実行不可となっていた。

※この「「楯の会」学生長へ」の解説は、「森田必勝」の解説の一部です。
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