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小賀正義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/19 06:14 UTC 版)

こが まさよし

小賀 正義
生誕 (1948-07-31) 1948年7月31日(76歳)
日本和歌山県有田市千田1279番地
国籍 日本
民族 日本人
出身校 神奈川大学工学部
職業 政治活動家
活動期間 1968年 – 1970年
団体 民兵組織「楯の会
肩書き 「楯の会」二期生、第5班班長
敵対者 反日主義共産主義
宗教 生長の家
罪名 三島事件における監禁致傷暴力行為等処罰に関する法律違反、傷害職務強要嘱託殺人
小賀(父)、竹子(母)
家族 令子(妹)
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小賀 正義(こが まさよし、1948年(昭和23年)7月31日 - )は、日本政治活動家民族主義者。三島由紀夫が結成した「楯の会」の2期生で第5班班長。三島、森田必勝と共に、憲法改正のための自衛隊の決起(クーデター)を呼びかける三島事件に参加した一員である[1][2]

経歴

生い立ち

1948年(昭和23年)7月31日、和歌山県有田市千田1279番地に誕生[3][4]。会社員であった父は1953年(昭和28年)、正義が5歳の時に亡くなり、母・竹子はみかん園を営みながら、正義とその1歳下の妹・令子を育てた(令子は成長すると母と共にみかん園を経営)[4]。母親が宗教法人「生長の家」に所属していた関係で、正義は中学1年頃から「生長の家」の練成会などに参加するようになった[4]

中学校は、和歌山市内の伏虎中学で、卒業後は和歌山県下きっての名門の桐蔭高校に進んだ[5]。担任によると、小賀は目立たない生徒だったが、明るくて礼儀正しく、いつもにこやかで言葉もはっきりして素直で人に好かれるタイプの生徒だったという[5]

神奈川大学工学部に進学

将来は機械関係の事業をしようと神奈川大学工学部に進学した正義は、学園紛争に荒れる現状に危機を感じ、全学連全共闘から学園を守ろうと「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協)に入った[6]。住居は新宿区戸塚1丁目498番地の大早館に下宿していた[3]

楯の会へ

1968年(昭和43年)7月、同級生で同じ全国学協の伊藤邦典(「祖国防衛隊」〈のち楯の会〉1期生)から誘われ、三島由紀夫が引率する第2回の自衛隊体験入隊に参加し、7月25日から8月23日まで陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地軍事訓練を受けた[6][7][2]。同じ回にはやはり伊藤から紹介を受けた古賀浩靖(神奈川大学法学部)もいた[7]

三島先生と同じかまの飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら、こういう人が文化人の中にもいたのかと心強かったし、先生の真心が感じられた。ほんとうに信頼できる人だと思った。
生命は日本と日本民族源流からわき出た岩清水のようなものです。生命をかけて行動するのはその源流に戻ること。源流とは天皇だと考えた。先生とともに行動することは、生命をかけることだった。 — 小賀正義「裁判陳述」[6]

小賀はこの体験入隊の少し前にも、学生同志約15人と練馬駐屯地に体験入隊したことがあった[6]。その時に教官や一般自衛官に、憲法9条や天皇についての意見を訊ねると、「公務員だから」と言って話題を避けられた[6]

楯の会 2期生となった小賀は、1969年(昭和44年)春頃から第5班の班長になった[4]。5月頃から幹部級の会員として板橋警察署の道場や皇宮警察済寧館居合剣道の稽古に励み[8]、楯の会の主要精鋭メンバー「決死隊」の1人として、三島から日本刀を渡された[9][10]

1970年(昭和45年)4月3日、小賀は千代田区帝国ホテルのコーヒーショップで三島から、「これからもずっとやってくれるか?」と、最後まで行動を共にする意志があるかを打診され、沈思黙考の末に承諾した[11][12][2](詳細は三島事件#三島由紀夫と自衛隊を参照)。

三島事件の運搬役

運転免許を持っていた小賀は、7月11日に三島から渡された現金20万円で中古の41年型白塗りコロナを購入、自動車の運転は小賀が担当していた[11]

三島事件当日

11月25日事件当日。いつものようにコロナで運搬役を務めた[1]。三島宅に迎えに行き三島が小賀の運転するコロナに乗り込み出発。車中で三島はこう言った。「これがヤクザ映画なら、ここで義理と人情の『唐獅子牡丹』といった音楽がかかるのだが、おれたちは意外に明るいなあ」、一同が笑う。そして全員で『唐獅子牡丹』を歌った。市谷駐屯地に到着[13]

益田兼利東部方面総監を拘束する際には、「小賀、ハンカチ」の合図で行動に出る手筈であったが、総監が席を立ったため、行動にでなかった。総監はすぐに座り直し、刀をよく眺めてから三島に返した[1]

三島は軍刀を受け取ると手拭いで刀身をぬぐい、小賀に手拭いを渡した。最初に総監の背後に回って手拭でさるぐつわをかませた[1](詳細は三島事件#経緯を参照)。

三島由紀夫と森田必勝の介錯補佐

三島が総監室で割腹自決をし、森田必勝(学生長、第1班班長)と古賀浩靖(第5班副班長)が三島の介錯を終えた後、小賀は、三島の握っていた短刀(鎧通し)で首の皮を胴体から切り離し[14][15]小川正洋(第7班班長)、古賀と共に、総監の拘束を解き、自決させないよう最後まで護衛する任務を遂行した[1]。三島由紀夫の命令書により、「小賀正義君、君は予の慫慂(しょうよう)により死を決して今回の行動に参加し、参加に際しては予の命令に絶対服従を誓つた。よつてここに命令する。君の任務は同志古賀浩靖君とともに人質を護送し、これを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛に就き、楯の会の精神を堂々と法廷において陳述することである。」と命令されていたので、命令書通り、裁判陳述する事が小賀の使命であった[16][17]

三島事件裁判陳述

「いまの世の中を見たとき、薄っぺらなことばかり多い。真実を語ることができるのは、自分の生命をかけた行動しかない。先生(三島)からこのような話を聞く以前から、自分でもこう考えていた。憲法は占領軍が英文で起草した原案を押しつけたもので、欺瞞と偽善にみち、屈辱以外のなにものでもない。(中略)日本人の魂を取戻すことができるのではないかと考え、行動した。しかし、社会的、政治的に効果があるとは思わなかった。三島先生も『多くの人は理解できないだろうが、いま犬死がいちばん必要だということを見せつけてやりたい』と話されていた。われわれは軍国主義者ではない。永遠に続くべき日本の天皇の地位を守るために、日本人の意地を見せたのだ」
「天皇の地位は、天皇が御存在するが故に、歴史的に天皇なのであって、大統領議員を選ぶように多数決で決まるものではないのです。菊は菊であるからこと菊なのであって、どのようにしてもバラにすることはできないのと同様に、天皇を選挙やそれに類するもので否定することはできないのです。それなのに(国民の)『総意に基づく』とあるのは現行憲法が西洋の民主概念を誤って天皇に当てはめ、天皇が国民と対立するヨーロッパの暴君のように描き出したアメリカ占領軍の日本弱化の企みです。それ故、現行憲法を真に日本人と自覚するならば黙って見過ごすわけにはできないはずです。三島先生と森田大兄の自決は、この失われつつある大義のために行なった至純にして至高、至尊な自己犠牲の最高の行為であります。『死』は文化であるといった三島先生の言葉は、このことを指していたのではないかと思います」 — 小賀正義「裁判陳述」[18][19]

三島事件後

1972年(昭和47年)4月27日、「楯の会事件」裁判の第18回最終公判で、同志の小川正洋、古賀浩靖と共に小賀に懲役4年の実刑判決が下された[20]。罪名は「監禁致傷暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、傷害職務強要嘱託殺人」であった[20]

1974年(昭和49年)10月に仮出所[21][22]、刑期を終えた小賀は、故郷の和歌山県に戻って、地元の大学に入り直した。卒業後は就職して結婚し、和歌山で生活している[2]

人物像

  • 子供の頃から機敏で体力があり、小柄で細身で懸垂が得意であった[2][23]。三島も懸垂が得意であったが、その記録を抜くこともあったという[2]。柔和な顔立ちだが、いくら走っても倒れず、性格もとても素直だったため、三島に気に入られていたという[23]
  • 同じ「コガ」の古賀浩靖と区別するために、小賀は「チビコガ」、古賀は「フルコガ」というニックネームで呼ばれていた[12]
  • 森田必勝は、よく小賀と並んで「ぼくは必勝、かれは正義」とおどけていたという[23]
  • 不測の事態に備えて書いた辞世の句は以下のものである[24]
火と燃ゆる 大和心を はるかなる 大みこころの 見そなはすまで — 小賀正義

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e 「国会を占拠せよ ■第二回公判――冒頭陳述書 第四、犯行状況」(裁判 1972, pp. 74–80)
  2. ^ a b c d e f 「第四章 その時、そしてこれから――二期 小賀正義」(火群 2005, pp. 183–187)
  3. ^ a b 「春の雪 ■第一回公判――起訴状」(裁判 1972, pp. 33–34)
  4. ^ a b c d 「国会を占拠せよ ■第二回公判――冒頭陳述書 第一、被告人らの身上等」(裁判 1972, pp. 64–66)
  5. ^ a b 「第二章『市ヶ谷』に果てたもの――“憂国三銃士”の上申書【小賀正義】」(西 2020, pp. 166–169)
  6. ^ a b c d e 「『天皇中心の国家を』■第十五回公判――本人陳述 小賀正義」(裁判 1972, pp. 234–241)
  7. ^ a b 「第一章 曙 一、熱い時代――一期生の誕生 伊藤邦典」(火群 2005, pp. 26–28)
  8. ^ 「IV 行動者――集団という橋 4」(村松 1990, pp. 462–468)
  9. ^ 「VIII 遠・近目標混淆のなかで【二つの構想の狭間で…】」(山本 1980, pp. 185–187
  10. ^ 「第四章 憂国の黙契(40歳より自決)――序曲の行進」(生涯 1998, pp. 265–272)
  11. ^ a b 「国会を占拠せよ ■第二回公判――冒頭陳述書 第三、本件共謀の経過ならびに事前の行動等」(裁判 1972, pp. 67–74)
  12. ^ a b 「第七章 1段落目」(梓 1996, pp. 233–236)
  13. ^ 「『死ぬことはやさしい』■第六回公判――古賀、小賀両被告の検察官調書の朗読」(裁判 1972, pp. 118–122)
  14. ^ 「非常の連帯 ■第十六回公判――論告要旨 第一、本件事実関係について」(裁判 1972, pp. 252–258)
  15. ^ 「第四章 市ヶ谷台にて 六」(彰彦 2015, pp. 222–227)
  16. ^ 「命令書」(昭和45年11月)。36巻 2003, pp. 678–679、再訂 2005, p. 236
  17. ^ 「第七章 7段落目」(梓 1996, pp. 244–246)
  18. ^ 「春の雪 ■第一回公判――意見陳述 小賀正義」(裁判 1972, pp. 30–31)
  19. ^ 「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判――小賀正義被告の上申書」(裁判 1972, pp. 127–130)
  20. ^ a b 「憂国と法理の接点 ■第十八回公判――判決要旨」(裁判 1972, pp. 308–318)
  21. ^ 「終章 『三島事件』か『楯の会事件』か――十年目の変貌」(保阪 2001, pp. 313–321)
  22. ^ 「第四章 取り残された者たち――裁判終わる」(村田 2015, pp. 187–194)
  23. ^ a b c 「第三章 惜別の時 四」(彰彦 2015, pp. 155–163)
  24. ^ 「『散ること花と……』■第三回公判――証拠調べ」(裁判 1972, pp. 84–86)

参考文献

関連項目



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