楯の会と共に――豊饒の海
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「三島由紀夫」の記事における「楯の会と共に――豊饒の海」の解説
1968年(昭和43年)2月25日、三島は論争ジャーナル事務所で、中辻和彦、万代潔、持丸博ら10名と「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」という皆の血で巻紙に書いた血盟状を作成し、本名〈平岡公威〉で署名した。4月上旬には、堤清二の手配によるドゴールの制服デザイナー・五十嵐九十九デザインの制服を着て、隊員らと東京都青梅市の愛宕神社に参拝した。 インド訪問で中共に対処する防衛の必要性を実感した三島は、企業との連携で「祖国防衛隊」の組織拡大を目指し、民族資本から資金を得て法制化してゆく「祖国防衛隊構想」を立ち上げ、経団連会長らと何度か面談していたが、5月か6月頃の面談を最後に資金援助を断られてしまった。この年、新撰組の近藤勇死後百年祭に参加した。近藤勇は、三島の高祖父・永井尚志の親友であったという。 三島は組織規模を縮小せざるをえなくなり、10月5日に隊の名称を「祖国防衛隊」から『万葉集』防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ吾は」万葉集 第二十巻 歌番号4373にちなんだ「楯の会」と変えた。同年8月には剣道五段に合格し、9月からはインドでのベナレス体験が反映された第三巻の「暁の寺」を『新潮』で連載開始した(1970年4月まで)。 同年10月21日の国際反戦デーにおける新左翼の新宿騒乱の激しさから、彼らの暴動を鎮圧するための自衛隊治安出動の機会を予想した三島は、それに乗じて「楯の会」が斬り込み隊として加勢する自衛隊国軍化・憲法9条改正へのクーデターを計画した。この日の市街戦を交番の屋根の上から見ていた三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、隣にいた山本舜勝は気づいた。 この日帰宅した息子の興奮ぶりを母・倭文重は、「手がつけられない程で、身振り手振りで宜しく事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた。彼の心の底深く沈潜していたものが一挙に噴出した勢いだった」と述懐している。三島はクーデターに恰好の機会を待ちながらゲリラ演習訓練を続け、各大学で学生とのティーチ・インや防衛大学校での講演活動を行なった。三島と楯の会は、世間からの「玩具の兵隊さん」との嘲笑を隠れ蓑に精鋭化していった。 三島はその活動と並行し、同時期に『命売ります』や戯曲『わが友ヒットラー』、評論『反革命宣言』などを発表した。また、同年10月17日には川端康成のノーベル文学賞受賞が報道され、三島もすぐに祝いに駆けつけた。川端は受賞のインタビューで「運がよかった」「翻訳者のおかげ」のほか、「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えた。なおドナルド・キーンが後年1970年5月にコペンハーゲンの友人宅の夕食会で再会したある人物から直接聞いた話によると、この賞の選考の際ノーベル賞委員会は1957年東京で開催された国際ペンクラブ大会に参加したことのあるその人物に意見を求め、彼が三島の日本での政治的活動から「三島は比較的若いため(左翼の)過激派に違いないと判断した」ため川端の方を強く推して委員会を承服させたという。 1969年(昭和44年)1月には『豊饒の海』第一巻の『春の雪』、2月には第二巻『奔馬』が新潮社から刊行され、澁澤龍彦や川端康成など多くの評論家や作家から高評価された。2月11日の建国記念の日には、国会議事堂前で焼身自殺した江藤小三郎の壮絶な諌死に衝撃を受け、その青年の行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評〉を三島は感得した。 同年5月13日には、東大教養学部教室での全共闘主催の討論会に出席し、芥正彦や小阪修平らと激論を交わした。その中で三島は、〈つまり天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのことさ。それだけさ〉と発言し、最後に〈諸君の熱情は信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる〉と告げ、壇を後にした。 6月からは、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演する映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影に入り、薩摩藩士の田中新兵衛役を熱演した。大阪行きの飛行機内で、仲代が三島に「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」と尋ねると、「僕は死ぬときに切腹するんだ」「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と返答されたため、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという。 この頃、三島はすでに何人かの楯の会会員らに居合を習わせ、先鋭の9名(持丸博、森田必勝、倉持清、小川正洋、小賀正義など)に日本刀を渡し、「決死隊」を準備していた。これと並行し、自衛隊の寄宿舎での一日を綴った私小説『蘭陵王』、戯曲『癩王のテラス』などが発表され、日本のオデッセイは源為朝だという意気込みで、歌舞伎『椿説弓張月』も書き上げた。 しかし、7月下旬頃から古参メンバーの中辻や万代と、雑誌『論争ジャーナル』の資金源(中辻らが田中清玄に資金援助を求めていたこと)を巡って齟齬が生じ、8月下旬に彼らを含む数名が楯の会を正式退会した。その後、持丸も会の事務を手伝っていた松浦芳子との婚約を機に、退会の意向を示した。三島は「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と説得したが、駄目だった。持丸を失った三島の落胆は大きく、山本に「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという。持丸の退会により、10月12日から森田必勝が学生長となった。 この年の10月21日の国際反戦デーの左翼デモは前年とは違い、前もって配備されていた警察の機動隊によって簡単に鎮圧された。三島は自衛隊治安出動が不発に終わった絶望感から、未完で終わるはずだった「暁の寺」を〈いひしれぬ不快〉で書き上げた。これで、クーデターによる憲法改正と自衛隊国軍化を実現する〈作品外の現実〉に賭けていた夢はなくなった。 「暁の寺」の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。 — 三島由紀夫「小説とは何か 十一」 この頃、自分が死ぬかもしれないことを想定していた三島はもしもの場合を考え、川端康成宛てに〈死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけ〉だと、8月から頼んでいた。 同年10月25日、蓮田善明の25回忌に三島は『蓮田善明全集』刊行の協力要請を小高根二郎に願い出て、連載終了した小高根の「蓮田善明とその死」に〈今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません〉と返礼し、〈蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました〉と綴った 11月3日、森田を学生長とした楯の会結成1周年記念パレードが国立劇場屋上で行なわれ、藤原岩市陸将らが祝辞を述べ、女優の村松英子や倍賞美津子から花束を贈呈された。三島はこのパレードの祝辞を前々から川端に依頼し、10月にも直に出向いてお願いしたが、彼から「いやです、ええ、いやです」とにべも無く断られ、村松剛に涙声でその悲憤と落胆を訴えたという。
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