楯の会と共に――豊饒の海とは? わかりやすく解説

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楯の会と共に――豊饒の海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「楯の会と共に――豊饒の海」の解説

1968年昭和43年2月25日三島論争ジャーナル事務所で、中辻和彦万代潔、持丸博10名と「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」という皆の血で巻紙書いた血盟状を作成し本名平岡公威〉で署名した4月上旬には、堤清二の手配によるドゴール制服デザイナー五十嵐九十九デザイン制服着て隊員らと東京都青梅市愛宕神社参拝したインド訪問中共対処する防衛必要性実感した三島は、企業との連携で「祖国防衛隊」の組織拡大目指し民族資本から資金得て法制化してゆく「祖国防衛隊構想」を立ち上げ経団連会長らと何度面談していたが、5月6月頃の面談最後に資金援助断られてしまった。この年新撰組近藤勇死後百年祭参加した近藤勇は、三島高祖父永井尚志親友であったという。 三島組織規模縮小せざるをえなくなり10月5日に隊の名称を「祖国防衛隊」から『万葉集』防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の醜(しこ)の御出で立つ吾は」万葉集 第二十巻 歌番号4373にちなんだ「楯の会」と変えた同年8月には剣道五段に合格し9月からはインドでのベナレス体験反映され第三巻の「暁の寺」を『新潮』で連載開始した(1970年4月まで)。 同年10月21日国際反戦デーにおける新左翼新宿騒乱激しさから、彼らの暴動鎮圧するための自衛隊治安出動機会予想した三島は、それに乗じて楯の会」が斬り込み隊として加勢する自衛隊国軍化・憲法9条改正へのクーデター計画した。この日の市街戦交番屋根の上から見ていた三島身体興奮小刻みに震えているのを、隣にいた山本舜勝は気づいた。 この日帰宅した息子興奮ぶりを母・倭文重は、「手がつけられない程で、身振り手振り宜し事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた彼の心の底深く沈潜していたもの一挙に噴出した勢いだった」と述懐している。三島クーデター恰好機会待ちながらゲリラ演習訓練続け、各大学学生とのティーチ・イン防衛大学校での講演活動行なった三島楯の会は、世間からの「玩具の兵隊さん」との嘲笑隠れ蓑精鋭化していった。 三島その活動並行し同時期に命売ります』や戯曲わが友ヒットラー』、評論反革命宣言』などを発表したまた、同年10月17日には川端康成ノーベル文学賞受賞報道され三島もすぐに祝い駆けつけた。川端受賞インタビューで「運がよかった」「翻訳者のおかげ」のほか、「三島由紀夫君が若すぎるということおかげです」と答えた。なおドナルド・キーン後年1970年5月コペンハーゲン友人宅の夕食会再会したある人物から直接聞いた話によると、この賞の選考の際ノーベル賞委員会1957年東京開催され国際ペンクラブ大会参加したことのあるその人物に意見求め、彼が三島日本での政治的活動から「三島比較的若いため(左翼の)過激派違いない判断した」ため川端の方を強く推して委員会承服させたという。 1969年昭和44年1月には『豊饒の海第一巻の『春の雪』、2月には第二巻奔馬』が新潮社から刊行され澁澤龍彦川端康成など多く評論家作家から高評価された。2月11日建国記念の日には、国会議事堂前焼身自殺した江藤小三郎壮絶な諌死衝撃を受け、その青年行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治対する最も強烈な批評〉を三島感得した。 同年5月13日には、東大教養学部教室での全共闘主催討論会出席し芥正彦小阪修平らと激論交わしたその中で三島は、〈つまり天皇天皇諸君一言言ってくれれば、私は喜んで諸君手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのことさ。それだけさ〉と発言し最後に諸君熱情信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけ信じる〉と告げ、壇を後にした。 6月からは、勝新太郎石原裕次郎仲代達矢らと共演する映画人斬り』(五社英雄監督)の撮影入り薩摩藩士の田中新兵衛役を熱演した。大阪行き飛行機内で、仲代三島に「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」と尋ねると、「僕は死ぬときに切腹するんだ」「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と返答されたため、仲代冗談一つだと思って聞いていたという。 この頃三島はすでに何人かの楯の会会員らに居合習わせ先鋭の9名(持丸博森田必勝倉持清、小川正洋小賀正義など)に日本刀渡し、「決死隊」を準備していた。これと並行し自衛隊寄宿舎での一日綴った私小説蘭陵王』、戯曲癩王のテラス』などが発表され日本オデッセイ源為朝だという意気込みで、歌舞伎椿説弓張月』も書き上げた。 しかし、7月下旬頃から古参メンバー中辻万代と、雑誌論争ジャーナル』の資金源中辻らが田中清玄資金援助求めていたこと)を巡って齟齬生じ8月下旬に彼らを含む数名楯の会を正式退会したその後持丸も会の事務手伝っていた松浦芳子との婚約機に退会意向示した三島は「楯の会仕事専念してくれれば生活を保証する」と説得したが、駄目だった。持丸失った三島落胆大きく山本に「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみ怒りの声でしんみり言ったという。持丸退会により、10月12日から森田必勝学生となったこの年10月21日国際反戦デー左翼デモ前年とは違い前もって配備されていた警察機動隊によって簡単に鎮圧された。三島自衛隊治安出動不発終わった絶望感から、未完で終わるはずだった「暁の寺」を〈いひしれぬ不快〉で書き上げた。これで、クーデターによる憲法改正自衛隊国軍化を実現する作品外現実〉に賭けていた夢はなくなった。 「暁の寺」の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実確定せられ、一つ作品世界完結し閉ぢられると共にそれまで作品外現実はすべてこの瞬間紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年ヶ月は、小休止と共に、二種の現実対立緊張の関係を失ひ、一方作品に、一方紙屑になつたのだつた。 — 三島由紀夫小説とは何か 十一この頃自分が死ぬかもしれないことを想定していた三島はもしもの場合考え川端康成宛てに〈死後子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけ〉だと、8月から頼んでいた。 同年10月25日蓮田善明25回忌三島は『蓮田善明全集刊行協力要請小高根二郎願い出て連載終了した小高根の「蓮田善明とその死」に〈今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません〉と返礼し、〈蓮田氏と同年にいたり、なほべんべん生きてゐるのが恥ずかしくなりました〉と綴った 11月3日森田学生長とした楯の会結成1周年記念パレード国立劇場屋上行なわれ藤原岩市陸将らが祝辞述べ女優村松英子倍賞美津子から花束贈呈された。三島はこのパレード祝辞前々から川端依頼し10月にも直に出向いてお願いしたが、彼から「いやです、ええ、いやです」とにべも無く断られ村松剛涙声でその悲憤落胆訴えたという。

※この「楯の会と共に――豊饒の海」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「楯の会と共に――豊饒の海」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。

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