自衛隊・防衛庁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 09:18 UTC 版)
事件翌日11月26日の総監室の前には、誰がたむけたのか菊の花束がそっと置かれていたが、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた。その後、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という答もあり、防衛庁をあわてさせたという。 三島と対談したことのある防衛大学校長・猪木正道は、三島の「檄」を、「公共の秩序を守るための治安出動を公共の秩序を破壊するためのクーデターに転化する不逞の思想であり、これほど自衛隊を侮辱する考え方はない」と批判した。 その後、三島と楯の会が体験入隊していた陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地には、第2中隊隊舎前に追悼碑がひっそりと建立された。碑には、「深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれた。 警察が、三島と知り合った自衛隊の若い幹部に事情聴取すると、三島に共鳴し真剣に日本の防衛問題を考えている者が予想以上に多かったという。楯の会にゲリラ戦略の講義などをしていた山本舜勝1佐も事情聴取されたが、警察当局は事件を単なる暴徒乱入事件という形で処理する方針となっていたため、山本1佐は法廷までは呼ばれなかった。 12月22日、東部方面総監・益田兼利陸将が事件の全責任をとって辞職した。この際、益田総監と中曽根康弘防衛庁長官が談判したが、その時の記録テープには、中曽根が「俺には将来がある。総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」「東部方面総監の俸給を2号俸上げるから…」(これは退職金計算の基礎額を増やし、退職金を増やすという意味)と打診していたくだりがあるとされる。 三島事件の被害者の1人である寺尾克美3佐は、このテープを聞いて「腸が煮えくり」かえり、それまで尊敬していた中曽根を、「こういう男かと嘆かわしく思った」としている。 事件から3年後の1973年(昭和48年)秋から、自衛官用の服務の宣誓文に「日本国憲法及び法令を遵守し」という文言を防衛庁内局が挿入した。この文言は、それまで国家公務員(警察官他)の宣誓文だけに書かれ、自衛官の宣誓文に「憲法遵守」を入れるのは躊躇されていたが(憲法第9条を素読すれば自衛隊の存在が違憲と捉えることが可能なため)、三島事件で自衛隊が全くの安全人畜無害な組織であることが明瞭となったため(誰1人としてこの文言を入れても将校が反抗しないと判断したため)、挿入することになった。
※この「自衛隊・防衛庁」の解説は、「三島事件」の解説の一部です。
「自衛隊・防衛庁」を含む「三島事件」の記事については、「三島事件」の概要を参照ください。
- 自衛隊・防衛庁のページへのリンク