自衛隊設立後
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第二次世界大戦が終結した後しばらくは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の「301号訓令」によって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続いた。これが解除されたのはサンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復した1952年(昭和27年)で、同年10月には保安隊が発足し、翌1953年(昭和28年)1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された。さらに、1954年には自衛隊法が成立し、保安隊は自衛隊に改組されることになり、同年7月には航空自衛隊が発足した。 1955年(昭和30年)にはMSA協定によって、航空自衛隊はアメリカからジェット戦闘機のF-86Fセイバーの供与を受けることになった。これに対応し、パイロットの一部は教官課程に進むためにアメリカに留学することになった。この時に日本のパイロットが留学していたのがアメリカ空軍のネリス空軍基地で、留学生のうちの1人のパイロットは、基地で見たサンダーバーズのアクロバット飛行演技に深く感銘を受けた。また、アクロバット飛行チームのメンバーになることが、戦闘機パイロットにとっては大変な栄誉であることも目の当たりにした。 このパイロットは帰国後に浜松基地の第1航空団第1飛行隊の教官として着任し、当時浜松基地に主任教官として在日アメリカ軍事援助顧問団 (MAAGJ) から赴任していた ジョー・ライリー大尉の助言を受け、同僚を誘い、1958年(昭和33年)ごろから飛行訓練の合間にアクロバット飛行の訓練を行うようになった。 これは極秘裏に行なった訓練で、やがて飛行隊長の知るところとなった。この飛行隊長は叱責するどころか訓練の趣旨に共感し、すぐに航空団の上層部にかけあって、正式に訓練できる環境を整えた。そのうえ、1958年秋に行われる浜松基地開庁記念式典のアトラクションとして、アクロバット飛行の公開を行うことが認められた。まもなく3番機が訓練に加わり、3機編隊での本格的な訓練が開始された。3人は教官として学生訓練を終えた後、午後4時ごろからアクロバット飛行の訓練を行なっており、1ヶ月で60時間ものフライトを行っていたという。この時期の第1飛行隊のコールサインは「チェッカー」で、編隊飛行の際にはこれに編隊名として色名をつけており、アクロバット飛行チームでは「チェッカー・ブルー」というコールサインを使用していた。 同1958年10月19日には、この3名によるチームにより、航空自衛隊によるアクロバット飛行が初めて一般に公開された。使用機材は通常装備のF-86Fであり、スモークも特別塗装もなかった ものの、ジェット機のアクロバット飛行は映画の中でさえ珍しかった時代に、航空自衛隊関係者と観客に与えた衝撃はかなりのものだったといわれている。この後に4番機が加わり、翌1959年(昭和34年)3月15日には愛知県犬山市で行なわれた日本平和防衛博覧会の開会式、同年3月20日の防衛大学校卒業式、同年4月26日の名古屋空港祭において展示飛行が行われた。 ここでチームはいったん解散という形態をとることになる ものの、アクロバット飛行の訓練は継続された。その後、同年8月にアクロバット飛行チームのリーダーは交代することになり、リーダーの所属する第2飛行隊のコールサインが「インパルス」だったため、アクロバット飛行チームは「インパルス・ブルー」というコールサインを使用することになった。 同年12月にアメリカ空軍のサンダーバーズが来日し、同月12日には埼玉県のジョンソン基地(当時)において超音速ジェット戦闘機のF-100Dスーパーセイバーを使用したアクロバット飛行を披露した。この時、航空自衛隊のアクロバット飛行チームもフライトを見学し、パイロットや地上要員のパフォーマンスを観察した ほか、整備員はサンダーバーズのメンバーからスモーク発生方法に関する情報を得ることが出来た。
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