決起へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 00:42 UTC 版)
11月3日、三島、森田、小賀、小川、古賀の5名は六本木のサウナ「ミスティー」に集合し、檄文と要求項目の原案を検討した。この時、三島は全員自決するという計画を止めさせ、小賀、小川、古賀の3名に生き残こることを命じ、連隊長を自決させないよう護衛する任務を与えた。 小賀ら3名は自分たちも一緒に死にたいと抵抗したが、森田は、「俺たちは、生きているにせよ死んで行くにしろ一緒なんだ、またどこかで会えるのだから」、「(われわれは一心同体だから)あの世で魂はひとつになるんだ」と言った。 三島はその前日の11月2日、森田にも自決を止めるよう説得していたが、「親とも思っている三島先生が死ぬときに、自分だけが生き残るわけにはいきません。先生の死への旅路に、是非私をお供させて下さい」と森田は押し切り、その後の小賀らの「一緒に生きて先生の精神を継ごう」という説得にも決心は揺るがなかった。 11月4日から6日まで、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地でリフレッシャーコースが行われた。会員たちは鉄道爆破の訓練を受け、爆弾の設置方法などを教わり、実際に線路を爆破して、爆音と共に線路が粉々になるのを見学した。 訓練終了後、三島ら5名は御殿場市内の御殿場館別館で開かれた慰労会で、他の会員や自衛官らと密かに別離を惜しんだ。三島は全員に正座をして酒をついで廻り、「唐獅子牡丹」を歌った。森田は小学唱歌「花」と「加藤隼戦闘隊」、小賀は「白い花が咲くころ」、小川は「昭和維新の歌」「知床旅情」を歌い、古賀は特攻隊員の詩を朗読した。 11月14日、三島ら5名はサウナ「ミスティー」に集合し、32連隊隊舎前で待機させる記者2名をNHK記者・伊達宗克とサンデー毎日記者・徳岡孝夫に決定し、檄文の原案を検討した。11月19日は、伊勢丹会館後楽園サウナ休憩室に集合し、32連隊長拘束後の時間配分などを打ち合わせした。 11月21日、森田が決行当日の11月25日の宮田朋幸32連隊長の在室の有無を確認するため市ヶ谷駐屯地に赴くと、当日32連隊長が不在予定であることが判明した。森田の報告を受け、急遽、中華「第一楼」に集合した5名は協議の末、拘束相手を益田兼利東部方面総監に変更することに決定し、三島はすぐに総監に電話を入れて11月25日午前11時の面会約束をとりつけた。 同日と翌11月22日、森田ら4名は三島から受け取った4千円でロープや垂れ幕用のキャラコ布など必要品を購入し、11月23日と翌24日、 丸の内のパレスホテル519号室に5名は集合し、決起の最終準備(垂れ幕、檄文、鉢巻、辞世の句など)と、一連の行動の予行演習を行なった。 一連の準備が済んだ11月24日の午後、密かに森田は1人で故郷の三重県四日市市に行って亡き父母の墓参りをし、東京にとんぼ返りした。同日の夕方16時頃から、三島ら5名は、新橋の料亭「末げん」で鳥鍋料理の「わ」のコースで最後の会食をした。 20時頃、一同は店を出て、小賀の運転する車で帰宅の途についた。車中三島は、「総監は立派な人だから申し訳ないが目の前で自決すれば判ってもらえるだろう」と言い、もしも総監室に入る前に自衛隊員らに察知され捕まった場合は、5人全員で舌を噛んで死ぬしかないとも話した。 自宅に帰宅した三島は、22時頃に自宅敷地内の両親宅に就寝の挨拶に行った。小川と古賀は、小賀の戸塚の下宿に泊まった。小川は、交際していた女性とこの日入籍したことを2人に告げた。 森田は十二社(西新宿)の小林荘の下宿に帰宅後、同居する田中健一を誘って、近くの食堂「三枝」に行き、明日の例会の市ヶ谷会館で徳岡孝夫と伊達宗克に渡すべき封書2通を託し、田中は黙ってそれを受け取り、必勝と下宿に戻った。 11月25日の午前8時50分頃、小賀、小川、古賀は、小賀の運転するコロナで下宿を出発し、9時頃、新宿西口公園付近の西口ランプ入口で待つ森田と合流し三島邸に向った。10時13分頃、コロナは三島邸に到着し、日本刀・関孫六とアタッシュケースを携えた三島を助手席に乗せて自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった(詳細は三島事件を参照)。
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