決起に向けて
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1970年(昭和45年)の正月休みの頃、三重県四日市市に帰省した必勝は、大学を留年したいと兄・治に申し出た。治は、「君の人生だから勉強することがあるならそれでもいいが、もう二浪しているんだよ。留年後は自分で稼ぎなさい」と言った。 幼馴染で初恋の上田牧子は、必勝が大学卒業後にどうするか決めずに留年すると聞き、「学生の身分でなければ(楯の会の)学生長ができないの?」と訊ねたが、必勝は「そうでもないんだけど」と曖昧に言葉を濁したという。 同年3月1日から28日まで、第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われ、必勝も学生長として三島と共に学生を引率した。この3月頃から、必勝は三島と決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。 春休みに必勝は、福井県に帰省している田中健一の実家を訪ねた。しかしその時に健一は不在で、父親が応対に出た。田中の父は何かを感じ、「うちの息子を危険な目に遭わさんといてくれ、一人息子やから」と必勝の手を握って頼んだ。 必勝は落胆した様子で、田中の父親が楯の会の活動を危険視していたというニュアンスで、野田隆史に語ったという。この頃、必勝は、三島との行動を共にする同志を誰にするか、考えていたのではないかと推定されている。 同年4月3日、三島は帝国ホテルのコーヒーショップで小賀正義と会い、最後まで行動を共にする意志があるかを訊ね、小賀は承諾した。4月10日には、自宅に招いた小川正洋にも、「最終行動」に参加する意志があるかどうか三島は打診し、小賀同様に小川も沈思黙考の末に承諾した。 同年4月下旬に三島は、少年時代の感情教育の師であった蓮田善明の伝記が綴られた本(小高根二郎著)を山本舜勝1佐に献呈した。5月中旬、三島宅に必勝、小賀、小川の3名が集まった。山本1佐にまだ一縷の望みを持っていた彼らは、楯の会と自衛隊が共に武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴えるという「最良の方法」を討議するが、具体的な方法はまだ模索中であった。 この頃から必勝の目は険しくなり、いつものように小賀正義と並んで「ぼくは必勝、かれは正義」とおどける愛嬌を見せなくなった。下宿の小林荘の廊下のピンク電話で、故郷の兄・治と口論し、「おれはおれの信念でやってんのや」と怒っている風景も見られた。同年6月2日から4日まで、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者会員のリフレッシャーコースが行なわれた。 同年6月13日、必勝は三島、小賀、小川とホテルオークラ821号室に集合した。これまで接触してきた自衛隊将校らにはもう期待できないことを悟り、自分たちだけで実行する具体的な計画を練った。 自衛隊の弾薬庫を占拠して武器を確保し爆破すると脅す、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させて、国会占拠・憲法改正を議決させる計画を三島が提案した。討議の結果、東部方面総監を拘束する方法を取ることにし、楯の会2周年記念パレードに総監を招いて、その際に拘束する案などが検討された。 同年6月21日、必勝ら4人は山の上ホテル206号室に集合した。三島から、市ヶ谷駐屯地内のヘリポートを楯の会の体育訓練場所として借用できる許可を得ることに成功した旨の報告がなされ、総監室がヘリポートから遠いため、拘束相手を32連隊長・宮田朋幸1佐に変更することが提案され、全員が賛同した。 同年7月5日、必勝ら4人は、山の上ホテル207号室に集合し、決行日を11月の楯の会例会日にすることに決めた。例会後のヘリポートでの訓練中に、三島が小賀の運転する車に武器の日本刀を積んで32連隊長室に赴き、宮田連隊長を監禁する手順を決定した。7月11日、小賀は三島から渡された現金20万円で中古の41年式白塗りトヨタ・コロナを購入した。 7月下旬、必勝ら4人は、ホテルニューオータニのプールで、決起を共にする楯の会メンバーをもう1人増やすことにし、誰にするか相談した。この夏、必勝ら3人は三島からそれぞれに8万円を渡され、北海道旅行をした。 この夏、四日市市にも帰省した必勝は、「なにかする時、茂は命を懸けてできるのか」と日頃から訊ねていた弟分の上田茂に、「おれがなんかすれば、すぐわかる。もう死ぬしかないと思っとる」と言い、「三島由紀夫に会って自分の考え方が理論化できた。だから三島をひとりで死なせるわけにはいかん」とも言った。 次の日に東京に戻るという夕方、必勝は小学生の甥・裕司と一緒に上田家を訪問した。いつもなら一家の夕食の団欒に加わる必勝であったが、この時は誘われても固辞して、「なあ、裕司、食べてきたんだよなあ」「つぎに帰ってきた時にね」と帰っていった。必勝はさりげなく、最後に牧子の顔を見に来たのだった。また、この夏にも、福井県に帰省している田中健一を訪ねたという。 同年8月28日、再びホテルニューオータニのプールに集まった必勝ら4人は、古賀浩靖(2期生、神奈川大学法学部既卒)を仲間に加えることを決定した。9月1日、「憲法改正草案研究会」の帰り、必勝と小賀は西新宿3丁目の深夜スナック「パークサイド」に古賀を誘い、「最終計画」を説明して賛同を得た。 同年9月10日から12日まで、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースが行われた。9月15日、必勝、三島、小賀、小川、古賀の5人は、千葉県野田市の興風館で行われた戸隠流忍法演武会(忍者大会)を見物し、帰途に墨田区両国 1丁目10-2のイノシシ料理店「ももんじ屋」で会食して同志的結束を固めた。 同年10月2日、必勝ら5人は、銀座2丁目の中華料理店「第一楼」に集合した。11月の例会を午前11時に開き、例会後の市ヶ谷駐屯地のヘリポートでの通常訓練を開始後、三島と小賀が葬儀参列を理由に退席して、日本刀を車に搬入する手筈で32連隊長を拘束するという具体的手順を決定した。その際、信頼できる記者2名を32連隊隊舎前の車中で待たせることも同時に決定した。 同年10月19日、必勝ら5人は10月例会の後、千代田区麹町の東条会館で、楯の会の制服を着用して記念撮影を行なった。この頃、必勝は同じ「十二社グループ」で楯の会会員の野田隆史、鶴見友昭に、「ここまできて三島がなにもやらなかったら、おれが三島を殺る」と言っていたという。 同年10月23日、楯の会は都内の火葬場や給電指令所で演習を行なった。三島は、この演習前に市ヶ谷私学会館に集合した会員の前で、黒板に「coup d'État(クーデター)」と無言で書き、都市機能をマヒさせるための具体的な場所を示した。会員たちは、いよいよ全員でのクーデターが始まるのだと思ったという。この日の夜、三島は1人で山本1佐宅を訪ねた。 この頃、早稲田の路上で偶然、必勝と鉢合わせした日学同の斉藤英俊は、必勝の顔がいつもの天真爛漫な表情ではなく、納沙布岬から北方領土の貝殻島まで決死の覚悟で泳いで渡ろうとした時のような「思いつめた表情」だったと回想している。
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