決起についての日ソの見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
「尼港事件」の記事における「決起についての日ソの見解」の解説
1920年6月30日、日本外務省公表の『尼港事件ニ関する件』によれば、ニコラエフスクにいた中国領事や惨殺を逃れたロシア人たちの話、新聞情報を総合して、日本軍決起の要因は次のようなものだった。「日本軍はパルチザンとの間に協定を結び、白軍を虐殺しないこと、としていたが、パルチザンは約束を破って惨殺した。またパルチザン部隊は、ニコラエフスク市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、革命記念日に日本軍を抹殺するとの風評が流れた。3月11日午後になって、日本軍は武装解除を求められ、しかも期限を翌12日正午と通告されたので、自衛上、決起した」 『西白利出兵 憲兵史』も、事件直後の外務省見解と基調は変わらず、決起にいたった状態を次のように述べている。「開城の合意条項において、ニコラエフスク市内では白軍であっても検束しない、ということになっていたにもかかわらず、入城するや否や、ほしいままに白軍、有産者を捕縛、陵辱、略奪し、日本軍に保護を願ってくる者が多数にのぼった。そこで、守備隊長の石川少佐は石田虎松領事と相談して、3月10日、トリャピーツィンに暴虐行為をやめるように勧告したが、かえってトリャピーツィンは、日本軍に武器弾薬全部の貸与方を要求して、翌12正午までの回答を迫った」。 事件により、400名近い日本軍守備隊は全滅したにもかかわらず、ある程度、戦闘状況などがわかったについては、ニコラエフスクの廃墟から、香田一等兵の日記などが発見されたためである。原暉之は、香田日記の表現が、「武器弾薬ノ借受ヲ要求」となっていることから、トリャピーツィンが日本軍に武装解除を迫ったという日本側の見解に疑問をはさみ、次に述べるソ連側の言い分に理解を示す。 ソ連側、スモリャークの論文では、事件に関係した赤軍の一人、オフチーンニコフの回想録により、「赤軍と日本軍の関係は友好的なものであった。しかしながら、これは日本側が赤軍を欺いていたのである」とし、「日本軍は講和条約の条件を破り、突然攻撃してきた」と結論づけられている。 これは、日本軍決起鎮圧直後に、トリャピーツィンがニーナ・レベデワ(ナウモフの死により参謀長になっていた)と連名で、各地に打電した声明文に基づいた回想と思われる。トリャピーツィンは、日本軍との友好関係を、次のように宣伝していた。「日本軍将校達は、頻繁に我々の本部を訪れて、仕事をする以外に、友人であるかのように議論に加わったり、ソビエト政府に対する賛同を表明したり、自分達をボルシェヴィキと呼んでみたり、赤いリボンを服に着けたりしていた。彼らは、武器の供給であるとか、その他可能なあらゆる方法で、赤軍を援助すると約束した。しかし、後に明らかになるように、それは、計画していた裏切り行為を隠蔽するために、彼らが被った仮面に過ぎなかった」 これについて、虐殺を生き延びたE.I.ワシレフスキイは、1920年7月に、こう宣誓証言をしている。「パルチザン本部への、日本軍の攻撃は、3月12日の午前2時か3時ごろに始まった。その攻撃の前に、日本軍の武装解除の通告に関する件と、パルチザン本部に来た日本軍の人たちに行った、赤いネクタイにピンを付けさせるような件による侮辱と、一連の挑発的な行動によって意図的にパルチザン達が、情報を流しているとの噂が、広まっていた」 アメリカ人マキエフは赤軍はニコラエフスク市街に侵入後、旧ロシア軍人、官吏等2,500名を捕縛し、そのうち200名を惨殺するなどの暴虐を行ったため、日本守備隊長が抗議を申込むと赤軍は却て日本軍の武装解除を要求し、日本守備隊長がこれを拒絶しついに日本軍と赤軍との間に戦闘が開始されたと証言している。
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