決起計画とその発覚
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「陸軍士官学校事件」の記事における「決起計画とその発覚」の解説
参謀本部付の辻政信大尉は、陸軍士官学校幹事(教頭)の東條英機少将からの依頼を受け、士官学校の本科生徒隊第1中隊長に転出していた。指導に力を入れた辻は生徒たちから信頼を集めた。辻は第1中隊の佐藤勝郎候補生から、他中隊の武藤候補生が一部青年将校らと共に臨時議会開催中にクーデターを計画していることを打ち明けられた。自身はこの陰謀に参加する気はないがどうすればよいかとの相談を受け、辻は生徒隊長の北野憲造大佐に報告した。北野から更に情報を集めるようにとの命を受け、辻は佐藤に対して計画への参加を指示し、内偵したうえで報告せよと命じた。 1934年10月28日に、佐藤と武藤は野砲兵第1連隊付の磯部一等主計を訪問し、クーデター計画の詳細について質問した。磯部は佐藤を西田税の自宅に連れていき、そこで陸軍戸山学校教官の大蔵栄一大尉にも引きあわせた。佐藤は具体的な計画を尋ねたが西田は詳細な情報は明かさなかった。11月に入り佐藤、武藤は3名の候補生を連れて数度に渡り村中孝次大尉の自宅を訪れた。佐藤は、士官学校の士官候補生だけで決起する計画があると述べ、青年将校らはどういう計画を有しているのかと質問した。村中、磯部は生徒たちに対して自重を説いていたが、話が進むうちに候補生らが士官学校の武器弾薬を用いて村中と磯部の指揮で議会を襲撃する話がもちあがった。 佐藤からの報告を受けた辻は、軍事課の片倉衷に概要を伝えた。さらに憲兵隊の塚本誠大尉が同期の辻を訪れ、歩兵第3連隊の安藤輝三大尉、大蔵、村中らが近衛歩兵第1連隊、近衛歩兵第3連隊、士官学校候補生らを用いて重臣、政府首脳を殺害し帝国議会、首相官邸を襲撃する計画があると打ち明けた。直ちに報告すべきであると考えた辻と塚本は片倉と合流し深夜に陸軍次官の橋本虎之助の官舎に向かい、クーデター計画を報告した。 塚本からの報告を受けた田代皖一郎憲兵司令官は19日に橋本と相談した上で、翌20日(11月20日)朝に村中、磯部、陸軍士官学校予科の片岡太郎中尉の3人と佐藤、武藤ら5人の候補生を逮捕した。 翌1935年(昭和10年)3月29日の第1師団軍法会議において証拠不十分で不起訴となったが、「軍紀上適当あらざるものありたる」として村中と磯部は停職、5人の候補生については退校させる処分が下された。 辻は重謹慎30日の行政処分を受け、満了後に歩兵第2連隊付に転出させられた。 村中と磯部は獄中から、事件が辻と片倉によるでっち上げだとして二人を誣告罪で告訴したが、陸軍は審理をしようとしなかった。業を煮やした村中と磯部は停職中に『粛軍に関する意見書』を執筆し、三月事件及び十月事件の経緯を記した田中清の手記などを付して配布した。2人は8月2日付で免官となった。
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