決起に至った要因とは? わかりやすく解説

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決起に至った要因

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 08:16 UTC 版)

三島事件」の記事における「決起に至った要因」の解説

自衛隊員たちへ撒いた檄文には、戦後民主主義日本国憲法批判、そして日米安保体制化での自衛隊存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊国軍化を促す内容書かれていた。三島最初単身自衛隊体験入隊直後1967年昭和42年5月27日時点では、〈いまの段階では憲法改正は必要ではないといふ考へに傾いてゐます〉と公けのインタビュー向けには応えながらも、以下のように述べている。 私は、私の考え軍国主義でもなければファシズムでもない信じてます。私が望んでいるのは、国軍国軍たる正し地位に置くことだけです。国軍国民のあいだの正しバランス設定することなんですよ。(中略政府がなすべきもっとも重要なことは、単なる安保体制堅持安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカ防衛力と、日本自衛権独立的価値を、はっきりわけPRすることである。たとえば安保条約下においても、どういうときには集団保障体制なかにはいるどういうときには自衛隊日本民族国民自力守りぬくかという“限界”をはっきりさせることです。 — 三島由紀夫三島帰郷兵に26質問」 さらに三島は、〈いまの制度そうさせるのか、陛下お気持そうさせるのか知らないが、外国使臣羽田迎えるときに陛下がわきに立って自衛隊儀仗避けられるということ聞いたとき、私は、なんともいえない気持がしました〉とも述べている。 また1967年昭和42年11月福田恆存との対談では、高坂正堯憲法への苦心尊重しながらも、自分憲法に対して現実主義立場立ちたい〉が、〈現状肯定主義〉ではあってはならないと思うとし、このまま日本国憲法第9条改正しないまま〈解釈〉で〈縄抜け〉するという論理的なトリック三島疑問呈しつつ、〈ぼくはもっと憲法軽蔑している〉と述べ憲法改正への法的手続国会三分の二と、過半数国民投票という二段構え)のハードルの高さに言及しながら、憲法第9条クーデターでしか変えられない語っている。 このように日本国憲法第9条の第2項ある限り自衛隊は〈違憲存在〉でしかない見ていた三島は、『檄文』や『問題提起』のなかで、自民党第9条2項対す解釈や、共産党社会党日米安保破棄標榜しつつも第9条護憲堅持するという矛盾姿勢を、〈日本人の魂の腐敗道義頽廃根本原因〉をなしているものと見て両者国体ないがしろにする姿勢批判している。演説中でも自衛官らに、〈諸君武士だろう、武士ならば、自分否定する憲法をどうして守るんだ〉と絶叫しばらまいた檄文』のなかで〈生命尊重のみで、魂は死んでよいのか生命上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重上の価値所在諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない日本だ。われわれの愛す歴史伝統の国、日本だ〉と訴えた三島自決決心影響与えた動因一つには、自決前年建国記念の日に、国会議事堂前「覚醒書」なる遺書残して世を警め同胞覚醒促すべく焼身自殺した青年江藤小三郎自決もあった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において、〈私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治対する最も強烈な批評読んだ一人である〉と記しており、この青年至誠壮絶な死が三島出処進退及ぼしていた心情看取されている。 三島自殺には様々な側面から諸説挙げられ、その要因一つとして三島少年時代レイモン・ラディゲ夭折憧れていたことなどや、『豊饒の海』で副主人公本多老醜描いていることなどから、自身の「老い」への忌避推察される向きもある。新潮社担当編集者だった小島千加子によると、『豊饒の海執筆中に「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と三島言っていたことがあるとされる。また月刊誌中央公論』の編集長であった粕谷一希によると、三島は、「自分荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と言ったとされ(なお、三島荷風とは系図上で遠戚関係にある)、その一方で、「作家どんなに自己犠牲をやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」とも言ったという。 しかし、三島老いへの考え一面的ではなく、〈自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。六十七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう〉とも述べており、〈室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本生れ日本人たることは倖せである。老い美学発見したのは、おそらく中世日本人だけではないだろうか。(中略スポーツでも、五十歳野球選手といふものは考へられないが、七十歳剣道八段は、ちやんと現役実力を持つてゐる〉とも語っている。小島千加子にも以前には、「川端康成佐藤春夫などは、年をとって精神美しさ滲み出て来た良い例」とも言っていたという。 1969年昭和43年10月行われた学生との対談では、学生が、三島以前から「夭折美学ということをしばしば説いていたことに触れ、「死」とかけ離れて考えられない美学」について質問された際に以下のように答えている。 ギリシア人美しく生き美しく死ぬことを望んだといわれています。美しく死ぬということはつまり私の年齢ではもう遅いのかもしれないけれども、西郷隆盛は私は美しく死んだ思っている。(中略それじゃ醜く死ぬというのは何だろうと思うと、これはだんだんにいろいろな世間的な名誉の滓がたまって、そして床の中でたれ流しになって死ぬことです。私はそれが嫌で嫌でおそろしくてたまらない。きっと私もそうなるかもしれないですね。だからそれがおそろしいから、いろいろなことをやって、なるたけ早く何か決着がつくように企んでいる。あなたは本気に死ぬ気はなかったのだろうというけれども、戦争済んでからなかなかチャンスがないわけだ。とにかく太宰さんみたいに女と一緒に川へ飛び込むのもいいだろうが、なかなかチャンスがない。私と一緒に死んでくれる女性――この中にそんな女性の方でもおられればいいのですが、――そういう志望者がなかなか現れないのです。(笑)ですから要するチャンス逸したということですな。 — 三島由紀夫国家革新原理――学生とのティーチ・イン その二」日時 昭和四十三年十月三日場所 早稲田大学大隈講堂主催 早稲田大学尚史会 1969年昭和44年3月第3回自衛隊体験入隊時の学生雑談でも、由紀夫」という名前は若すぎる名前だから、年を取ったシェークスピア(沙吉比亜)の尊称の「沙翁」にあやかって翁」にするつもりだと言い、「えっ、先生若くして死ぬんじゃないんですか」と学生驚いて質問すると、三島苦虫を噛み潰したような渋い表情変わって横を向いてしまったという。このことから、44歳時点では、作品外実人生では長生きするつもりだったとも見られている。 なお、三島にはヒロイズムつまり英雄的自己犠牲対す憧れがあることがエッセイなどから散見され、それも要因一つ数えられる三島は、1967年昭和42年元旦に『年頭迷い』と題して新聞発表した文章で、〈西郷隆盛五十歳英雄として死んだし、この間熊本へ行つて神風連調べて感動したことは、一見青年暴挙見られがちなあの乱の指導者一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と述べている。また、行動学入門』のなかでは、以下のように語っている。 かつて太陽浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄行為として人々称賛博したものが、いまや近代ヒューマニズム見地から裁かれるやうになつた。(中略会社社長室一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 後進国へ行つて後進国住民たちをだまし歩き会社収益上げてほめられる男がどうして行動的であらうか?現代行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭放つていくのを見るのである青年たちは、自分らがかつて少年雑誌劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北腐敗さらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定叫び、彼ら自身小さな神を必死に守らうとするのである。 — 三島由紀夫行動学入門」 そして、壮絶な死に美を見出すという傾向は、平田弘史時代物劇画好きだ語っていることなどからうかがえ切腹対す官能的な嗜好こだわりも、自身映画制作した小説憂国』や、榊山保名義ゲイ雑誌発表した小説愛の処刑』から看取される。切腹について三島語り合ったことのある中康弘通は、切腹興味を持つ傾向人々男女問わず、「切腹の持つ精神的伝統、すなわち儀式的厳粛崇高な自己犠牲悲愴美を、思春期心に刻みつけて以来条件反射のように、愛と死両極を結ぶ媒体として、切腹意義把握している」とし、そういった人々でも、自殺切腹を選ぶ人はあっても、「切腹したいから自殺する人は、まず無い」と解説している。 なお、三島1970年昭和45年7月7日付のサンケイ新聞夕刊戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得てゐない約束』というエッセイ寄稿しその中で自身戦後25年の〈空虚〉を振り返り、それを〈鼻をつまみながら通りすぎた〉とし、以下のようにその時代について語っている。 二十年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころかおどろくべき繁殖力日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ず偽善といふおそるべきバチルスである。こんな偽善詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分体質とすることを選んだのである政治も、経済も、社会も、文化ですら。 — 三島由紀夫果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」 三島はその戦後民主主義否定しつつも〈そこから利益を得、のうのう暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる〉と告白し多く作品積み重ねても、自身にとっては〈排泄物積み重ねたのと同じ〉で、〈その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど愚かになれるわけではない〉として最後一節では以下のような訣別表明している。この文章は、実質的な遺書一つとして以降三島研究三島事件論において多く引用されている。 二十年間希望一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とするこれだけエネルギー絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。私はこれから日本大し希望をつなぐことができないこのまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国極東一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。 — 三島由紀夫果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」 ちなみに三島決起時点ですでに死を決意していたことは、事件前9月に「楯の会メンバー古賀浩靖向かって、「自衛隊員中に行動共にするものがでることは不可能だろういずれにしても自分は死ななければならない」と語っていたことから明らかで、8月には「諌死」という漢字読みを「kanshi」とノート片に書いてヘンリー・スコット・ストークス渡していることなどから、自決クーデター実行ではなく、「諫死」(自ら死ぬことによって目上の者をいさめること)の意味合いであったことがうかがえる林房雄は、三島との対談対話日本人論』(1966年)の中で、政治家たちは詩人文学者予見したことを、何十年も過ぎてからやっと気がつくと言ったことに触れながら、「三島君とその青年同志諌死は、〈平和憲法〉と〈経済大国〉という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい――美しくあるべき日本という国を、〈エコノミック・アニマル〉と〈フリー・ライダー〉(只乗り屋)の醜悪な巣窟にして、破滅の淵への地すべりを起させている〈精神的老人たち〉の惰眠をさまし、日本地すべりそのものくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である」と述べている。 また、三島自決への要因一つとして欠かせないものには、三島少年期における文学の師であり、精神的支柱一人でもあった蓮田善明敗戦際し国体護持念じてピストル自決をとげたことの影響がある(詳細蓮田善明三島由紀夫参照)。1945年昭和20年8月19日戦地ジョホールバル蓮田は、中条豊馬大佐軍旗決別式で天皇愚弄した発言敗戦責任天皇帰し皇軍前途誹謗し日本精神壊滅説いた)に憤怒し、大佐射殺し自身自害した三島翌年11月17日成城学園素心寮で行われた蓮田善明偲ぶ会」で、哀悼の詩を献じた三島と同じ戦中派世代であり知人であった吉田満は、三島生涯かけて取り組もうとした課題基本にあるものは、「戦争死に遅れた」事実胚胎しているとし、終戦の時、満20歳であった三島鑑みて戦艦大和海上特攻戦に参加し21歳戦死した臼淵磐三島共通する精神や、四国沖の上空で米軍機交戦し散華した林尹夫(遺された日記が『わがいのち月明に燃ゆ』として戦後出版)と三島共通する自己凝視平静さを見ながら、次のように考察している。 出陣する先輩日本浪曼派同志たちのある者は、直接彼に後事託する言葉を残して征ったはずである。後事託されるということは戦争渦中にある青年にとって、およそ敗戦後復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分つくして祖国殉ずることだけを純粋に意味していた。(中略)われわれ戦中派世代は、青春頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決通してしか、「いかに生きるか」の課題追求許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。林尹夫表現によれば、――おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとって過去未来一貫せる生き方学ばせるものが、そこにあるのだ――と自分鞭打とうとする愚直な世代である。戦争終ると、自分一方的な戦争被害者仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない世代である。三島自身律義生真面目で、妥協許せないであった。 — 吉田満三島由紀夫苦悩1992年4月から1994年1月までの1年8か月日本滞在していたというインド人ビジネスマンのM.K.シャルマは、三島行動について、「彼(三島)は小説家としてこの世ありとあらゆる栄光手に入れたが、戦時自分が〈兵隊にならなかった〉というコンプレックスから逃れることはできなかった。兵役逃れたことは男児としての証明欠けるだけでなく、彼にとって、民族一人として資格欠けることだったのだろう。この劣等感は、名声手に入れれば入れるほど、彼の心に強く自嘲の念を与えたにちがいない」と述べている。 杉山隆男は、三島が滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に寄せた一文の中で自分のことを、〈自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた〉と言っていたことに触れつつ、「じっさい知りすぎた〉三島は、『』にも書きとめた通り、〈アメリカ眞の日本自主的軍隊日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊本質見抜いていたがゆえに、自衛隊今日ある姿を予見することができたのだろう」と述べ杉山自身実際に体験して悟った自衛隊観と重ねて以下のように分析している。 隊員ひとりひとり訓練任務最前線小石積み上げるようにどれほど地道ひたむきな努力重ねようとも、アメリカによってつくられいまなおアメリカ後見人にし、アメリカ意向をうかがわざるを得ないすぐれて政治的道具としての自衛隊本質限界は、戦後二十年六十余年となり、世紀新しくなっても変わりようがないのである。(中略)私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹し眼差し先に見据えていた。もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこ部分で、日本とはなり得ない三島絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。 — 杉山隆男「『兵士』になれなかった三島由紀夫舟橋聖一は、三島の死を「憤りの死」だとし、その死の意味について、「――わたしは思う。表現力極限死につながることを――。表現しても、表現しても、その表現力が厚い壁によって妨げられる時、ペンを擲って死ぬほかはない」という見解示した島田雅彦は、三島が『文化防衛論のような論文書きそうしたイデオロギー支えるべく言葉伽藍」を小説において創作しながら、その一方でサブカルチャー帝王としてのポジション」を作っていった理由は、安保反対左翼全盛時代イデオロギーストレートに出して全面的に支持得られるはずもないため、民主主義的支持取りつけなければならなかったからだと考察し、それは「戦後民主主義守護神」という位置占めようになった戦後天皇そのもの隠喩」を、三島自らが体現しようとしたではないか述べている。そしてそのやり方は、石原慎太郎のように文学者政治にかかわるという方向ではないが、「一人三島みたいなものの勢力伸ばしていく手口」であり、三島意識の中でイデオロギーと「有機的に矛盾なく結びついていたのかもしれないという意味での政治」なのだと論じている。 また島田は、今日文学が、「この日本変えるとか、日本の政治変えるという政治的な野心」から遠く離れてしまったことに触れつつ、以下のような見解述べている。 今の時点後学で、三島のやったことをとらえ直そうとすれば、もともとは政治敗北したもののジャンルであるとも言われていた文学深くコミットしながら、しかしそれでも、文学サイドから政治への逆転さよならホームランコミット文学革命社会革命になるということをどこかで信じていたのではないか。むろんそれは非常に難しい。かつての自由民権運動担い手たちや、大正デモクラシー担い手たち、共産主義運動コミットした文学者たちが抱いていた理想主義持ち得なかったかもしれないけれども、苦い現実認識伴いつつ、過去文学者政治かかわり方の一変形を三島認めるのは可能かもしれない。 — 島田雅彦三島由紀夫不在三十年」 田中美代子は、三島遺稿壮年狂気』の中で、〈現代一般政治家・実業家知識人それほど正気であり、それほど児戯から遠くにゐるだらうか〉と「三無事件」に触れながら反問し、〈狂気の問題提起は、正気だと思つてゐる人間狂気をあばくところにある〉と記していたことを挙げながら、「実際〉の指摘する沖縄問題いまだに解決をみず、現憲法はいわばゴルディウスの結び目であり、三島事件は、内外情勢照らし改憲不可能を見極めた故に、自ら〈文化〉を体現しつつ、〈政治〉と刺違え象徴的行動だった」と考察している。 磯田光一は、三島のなかに、「戦後安定した社会のなかで風化をつづける文化状況への反発戦後国家のはんでいる矛盾への挑戦」があり、それが「時代価値観逆行する道を行く動因一つになった述べている。そして、その小説家生涯がたとえ「三島由紀夫という名の仮面劇であったとしても、「その仮面そなえていた妥協知らない歩み」は、三島唱えた政治思想評価多く批判問題残されているにせよ、「その芸術上の豊かな達成とともに人間精神的価値証明しようとする誠実な試み一つであった」として、「自身行為時代へのアンチテーゼ意識していた三島は、その評価のこされ人びとゆだねたのである」としている。 死後46年経った2017年平成29年1月に初公表されジョン・ベスターとの対談自死9か月前の1970年2月19日実施)で三島は、〈死がね、自分中に完全にフィックスしたのはね、自分肉体ができてからだと思うんです。(中略)死の位置肉体の外から中に入ってたような気がする〉、〈平和憲法です。あれが偽善のもとです。(中略憲法は、日本人死ねと言っているんですよ〉と自身死生観文学憲法について触れ行動については自身を〈ピエロ〉に喩え後世理解委ねるのような以下の発言をしている。 僕がやっていることが写真出ます。あるいは、週刊誌紹介されます。それはその段階においてみんなにわかるわけでしょう。ああ、あいつはこんなことをやっているバカだねえ、と。でも、その「バカだねえ」ということ幾ら説明しても、僕をバカだと思った人はバカだと思い続けます。(中略)ですから、僕は、スタンダールじゃないけれども、happy fewわかってくれればいいんです。僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動の方が分かりにくいんだ、という自信があるんです。(中略)僕が死んでね、50年100年たつとね、「ああ、わかった」という人がいるかもしれない。それでも構わない生きているというのは、人間はみんな何らかの意味でピエロです。これは免れない佐藤首相でもやっぱり一種ピエロですね。生きている人間ピエロでないということはあり得ないですね。人間ピエロというのは、ある意味芝居をやらなくちゃ生きていけない。(ジョン・ベスター問い芝居をやらなきゃ生きていけないのは、きっと神様が我々を人形扱っているわけでしょう。我々は人生一つ役割を、puppet play(パペット・プレー)を強いられているんですね。 — 三島由紀夫ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月

※この「決起に至った要因」の解説は、「三島事件」の解説の一部です。
「決起に至った要因」を含む「三島事件」の記事については、「三島事件」の概要を参照ください。

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