決起に至った要因
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自衛隊員たちへ撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。三島は最初の単身自衛隊体験入隊直後の1967年(昭和42年)5月27日の時点では、〈いまの段階では憲法改正は必要ではないといふ考へに傾いてゐます〉と公けのインタビュー向けには応えながらも、以下のように述べている。 私は、私の考えが軍国主義でもなければ、ファシズムでもないと信じています。私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ。(中略)政府がなすべきもっとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はっきりわけてPRすることである。たとえば安保条約下においても、どういうときには集団保障体制のなかにはいる、どういうときには自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかという“限界”をはっきりさせることです。 — 三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」 さらに三島は、〈いまの制度がそうさせるのか、陛下のお気持がそうさせるのか知らないが、外国使臣を羽田で迎えるときに陛下がわきに立って自衛隊の儀仗を避けられるということを聞いたとき、私は、なんともいえない気持がしました〉とも述べている。 また1967年(昭和42年)11月の福田恆存との対談では、高坂正堯の憲法への苦心を尊重しながらも、自分は憲法に対して〈現実主義の立場に立ちたい〉が、〈現状肯定主義〉ではあってはならないと思うとし、このまま日本国憲法第9条を改正しないまま〈解釈〉で〈縄抜け〉するという論理的なトリックに三島は疑問を呈しつつ、〈ぼくはもっと憲法を軽蔑している〉と述べ、憲法改正への法的手続(国会の三分の二と、過半数の国民投票という二段構え)のハードルの高さに言及しながら、憲法第9条がクーデターでしか変えられないと語っている。 このように、日本国憲法第9条の第2項がある限り、自衛隊は〈違憲の存在〉でしかないと見ていた三島は、『檄文』や『問題提起』のなかで、自民党の第9条第2項に対する解釈や、共産党や社会党が日米安保破棄を標榜しつつも第9条護憲を堅持するという矛盾姿勢を、〈日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因〉をなしているものと見て、両者の国体をないがしろにする姿勢を批判している。演説の中でも、自衛官らに、〈諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ〉と絶叫し、ばらまいた『檄文』のなかで〈生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ〉と訴えた。 三島の自決の決心に影響を与えた動因の一つには、自決前年の建国記念の日に、国会議事堂前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく焼身自殺した青年、江藤小三郎の自決もあった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において、〈私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である〉と記しており、この青年の至誠と壮絶な死が三島の出処進退に及ぼしていた心情が看取されている。 三島の自殺には様々な側面から諸説が挙げられ、その要因の一つとして、三島が少年時代にレイモン・ラディゲの夭折に憧れていたことなどや、『豊饒の海』で副主人公・本多の老醜を描いていることなどから、自身の「老い」への忌避が推察される向きもある。新潮社の担当編集者だった小島千加子によると、『豊饒の海』執筆中に「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と三島が言っていたことがあるとされる。また月刊誌『中央公論』の編集長であった粕谷一希によると、三島は、「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と言ったとされ(なお、三島と荷風とは系図上では遠戚関係にある)、その一方で、「作家はどんなに自己犠牲をやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」とも言ったという。 しかし、三島の老いへの考えは一面的ではなく、〈自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう〉とも述べており、〈室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へられないが、七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる〉とも語っている。小島千加子にも以前には、「川端康成、佐藤春夫などは、年をとって精神の美しさが滲み出て来た良い例」とも言っていたという。 1969年(昭和43年)10月に行われた学生との対談では、学生が、三島が以前から「夭折の美学」ということをしばしば説いていたことに触れ、「死」とかけ離れては考えられない「美学」について質問された際に以下のように答えている。 ギリシア人は美しく生き美しく死ぬことを望んだといわれています。美しく死ぬということはつまり私の年齢ではもう遅いのかもしれないけれども、西郷隆盛は私は美しく死んだと思っている。(中略)それじゃ醜く死ぬというのは何だろうと思うと、これはだんだんにいろいろな世間的な名誉の滓がたまって、そして床の中でたれ流しになって死ぬことです。私はそれが嫌で嫌でおそろしくてたまらない。きっと私もそうなるかもしれないですね。だからそれがおそろしいから、いろいろなことをやって、なるたけ早く何か決着がつくように企んでいる。あなたは本気に死ぬ気はなかったのだろうというけれども、戦争が済んでからなかなかチャンスがないわけだ。とにかく太宰さんみたいに女と一緒に川へ飛び込むのもいいだろうが、なかなかチャンスがない。私と一緒に死んでくれる女性――この中にそんな女性の方でもおられればいいのですが、――そういう志望者がなかなか現れないのです。(笑)ですから要するにチャンスを逸したということですな。 — 三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」日時 昭和四十三年十月三日場所 早稲田大学大隈講堂主催 早稲田大学尚史会 1969年(昭和44年)3月の第3回自衛隊体験入隊時の学生と雑談でも、「由紀夫」という名前は若すぎる名前だから、年を取ったらシェークスピア(沙吉比亜)の尊称の「沙翁」にあやかって「雪翁」にするつもりだと言い、「えっ、先生は若くして死ぬんじゃないんですか」と学生が驚いて質問すると、三島は苦虫を噛み潰したような渋い表情に変わって横を向いてしまったという。このことから、44歳の時点では、作品外の実人生では長生きするつもりだったとも見られている。 なお、三島にはヒロイズムつまり英雄的自己犠牲に対する憧れがあることがエッセイなどから散見され、それも要因の一つに数えられる。三島は、1967年(昭和42年)元旦に『年頭の迷い』と題して新聞に発表した文章で、〈西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行つて神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と述べている。また、『行動学入門』のなかでは、以下のように語っている。 かつて太陽を浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになつた。(中略)会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか?現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らがかつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。 — 三島由紀夫「行動学入門」 そして、壮絶な死に美を見出すという傾向は、平田弘史の時代物劇画を好きだと語っていることなどからうかがえ、切腹に対する官能的な嗜好やこだわりも、自身が映画制作した小説『憂国』や、榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』から看取される。切腹について三島と語り合ったことのある中康弘通は、切腹に興味を持つ傾向の人々は男女問わず、「切腹の持つ精神的伝統、すなわち儀式的厳粛と崇高な自己犠牲の悲愴美を、思春期の心に刻みつけて以来、条件反射のように、愛と死の両極を結ぶ媒体として、切腹の意義を把握している」とし、そういった人々でも、自殺に切腹を選ぶ人はあっても、「切腹したいから自殺する人は、まず無い」と解説している。 なお、三島は1970年(昭和45年)7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得てゐない約束』というエッセイを寄稿し、その中で、自身の戦後25年の〈空虚〉を振り返り、それを〈鼻をつまみながら通りすぎた〉とし、以下のようにその時代について語っている。 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。 — 三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」 三島はその戦後民主主義を否定しつつも〈そこから利益を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる〉と告白し、多くの作品を積み重ねても、自身にとっては〈排泄物を積み重ねたのと同じ〉で、〈その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど愚かになれるわけではない〉として最後の一節では以下のような訣別を表明している。この文章は、実質的な遺書の一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。 二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。 — 三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」 ちなみに、三島が決起の時点ですでに死を決意していたことは、事件前の9月に「楯の会」メンバーの古賀浩靖に向かって、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたことから明らかで、8月には「諌死」という漢字の読みを「kanshi」とノート片に書いて、ヘンリー・スコット・ストークスに渡していることなどから、自決がクーデターの実行ではなく、「諫死」(自ら死ぬことによって目上の者をいさめること)の意味合いであったことがうかがえる。 林房雄は、三島が林との対談『対話・日本人論』(1966年)の中で、政治家たちは詩人や文学者が予見したことを、何十年も過ぎてからやっと気がつくと言ったことに触れながら、「三島君とその青年同志の諌死は、〈平和憲法〉と〈経済大国〉という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい――美しくあるべき日本という国を、〈エコノミック・アニマル〉と〈フリー・ライダー〉(只乗り屋)の醜悪な巣窟にして、破滅の淵への地すべりを起させている〈精神的老人たち〉の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である」と述べている。 また、三島の自決への要因の一つとして欠かせないものには、三島の少年期における文学の師であり、精神的支柱の一人でもあった蓮田善明が敗戦に際し、国体護持を念じてピストル自決をとげたことの影響がある(詳細は蓮田善明と三島由紀夫を参照)。1945年(昭和20年)8月19日、戦地のジョホールバルで蓮田は、中条豊馬大佐が軍旗の決別式で天皇を愚弄した発言(敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた)に憤怒し、大佐を射殺し自身も自害した。三島は翌年11月17日に成城学園素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で、哀悼の詩を献じた。 三島と同じ戦中派世代であり知人であった吉田満は、三島が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものは、「戦争に死に遅れた」事実に胚胎しているとし、終戦の時、満20歳であった三島を鑑みて、戦艦大和の海上特攻戦に参加し21歳で戦死した臼淵磐と三島に共通する精神や、四国沖の上空で米軍機と交戦し散華した林尹夫(遺された日記が『わがいのち月明に燃ゆ』として戦後出版)と三島に共通する自己凝視の平静さを見ながら、次のように考察している。 出陣する先輩や日本浪曼派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。(中略)われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。林尹夫の表現によれば、――おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとって過去と未来に一貫せる生き方を学ばせるものが、そこにあるのだ――と自分に鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。 — 吉田満「三島由紀夫の苦悩」 1992年4月から1994年1月までの1年8か月日本に滞在していたというインド人ビジネスマンのM.K.シャルマは、三島の行動について、「彼(三島)は小説家としてこの世でありとあらゆる栄光を手に入れたが、戦時に自分が〈兵隊にならなかった〉というコンプレックスから逃れることはできなかった。兵役を逃れたことは男児としての証明に欠けるだけでなく、彼にとって、民族の一人としての資格に欠けることだったのだろう。この劣等感は、名声を手に入れれば入れるほど、彼の心に強く自嘲の念を与えたのにちがいない」と述べている。 杉山隆男は、三島が滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に寄せた一文の中で自分のことを、〈自衛隊について「知りすぎた」男になつてしまつた〉と言っていたことに触れつつ、「じっさい〈知りすぎた〉三島は、『檄』にも書きとめた通り、〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう」と述べ、杉山自身も実際に体験して悟った自衛隊観と重ねて以下のように分析している。 隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようがないのである。(中略)私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。 — 杉山隆男「『兵士』になれなかった三島由紀夫」 舟橋聖一は、三島の死を「憤りの死」だとし、その死の意味について、「――わたしは思う。表現力の極限は死につながることを――。表現しても、表現しても、その表現力が厚い壁によって妨げられる時、ペンを擲って死ぬほかはない」という見解を示した。 島田雅彦は、三島が『文化防衛論』のような論文を書き、そうした「イデオロギーを支えるべく言葉の伽藍」を小説において創作しながら、その一方で「サブカルチャーの帝王としてのポジション」を作っていった理由は、安保反対左翼全盛の時代にイデオロギーをストレートに出しても全面的に支持が得られるはずもないため、民主主義的に支持を取りつけなければならなかったからだと考察し、それは「戦後民主主義の守護神」という位置を占めるようになった「戦後の天皇そのものの隠喩」を、三島自らが体現しようとしたのではないかと述べている。そしてそのやり方は、石原慎太郎のように文学者が政治にかかわるという方向ではないが、「一人で三島党みたいなものの勢力を伸ばしていく手口」であり、三島の意識の中でイデオロギーと「有機的に矛盾なく結びついていたのかもしれないという意味での政治」なのだと論じている。 また島田は、今日の文学が、「この日本を変えるとか、日本の政治を変えるという政治的な野心」から遠く離れてしまったことに触れつつ、以下のような見解を述べている。 今の時点の後学で、三島のやったことをとらえ直そうとすれば、もともとは政治に敗北したもののジャンルであるとも言われていた文学に深くコミットしながら、しかしそれでも、文学サイドから政治への逆転さよならホームラン的コミット、文学の革命が社会の革命になるということをどこかで信じていたのではないか。むろんそれは非常に難しい。かつての自由民権運動の担い手たちや、大正デモクラシーの担い手たち、共産主義運動にコミットした文学者たちが抱いていた理想主義は持ち得なかったかもしれないけれども、苦い現実認識を伴いつつ、過去の文学者と政治のかかわり方の一変形を三島に認めるのは可能かもしれない。 — 島田雅彦「三島由紀夫不在の三十年」 田中美代子は、三島が遺稿『壮年の狂気』の中で、〈現代一般の政治家・実業家・知識人はそれほど正気であり、それほど児戯から遠くにゐるだらうか〉と「三無事件」に触れながら反問し、〈狂気の問題提起は、正気だと思つてゐる人間の狂気をあばくところにある〉と記していたことを挙げながら、「実際〈檄〉の指摘する沖縄問題もいまだに解決をみず、現憲法はいわばゴルディウスの結び目であり、三島事件は、内外の情勢に照らし、改憲の不可能を見極めた故に、自ら〈文化〉を体現しつつ、〈政治〉と刺違えた象徴的行動だった」と考察している。 磯田光一は、三島のなかに、「戦後の安定した社会のなかで風化をつづける文化状況への反発、戦後国家のはんでいる矛盾への挑戦」があり、それが「時代の価値観に逆行する道を行く動因の一つ」になったと述べている。そして、その小説家の生涯がたとえ「三島由紀夫」という名の「仮面劇」であったとしても、「その仮面のそなえていた妥協を知らない歩み」は、三島が唱えた政治思想の評価に多くの批判や問題が残されているにせよ、「その芸術上の豊かな達成とともに、人間の精神的価値を証明しようとする誠実な試みの一つであった」として、「自身の行為を時代へのアンチテーゼと意識していた三島は、その評価をのこされた人びとにゆだねたのである」としている。 死後46年経った2017年(平成29年)1月に初公表されたジョン・ベスターとの対談(自死の9か月前の1970年2月19日に実施)で三島は、〈死がね、自分の中に完全にフィックスしたのはね、自分の肉体ができてからだと思うんです。(中略)死の位置が肉体の外から中に入ってきたような気がする〉、〈平和憲法です。あれが偽善のもとです。(中略)憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と自身の死生観や文学や憲法について触れ、行動については自身を〈ピエロ〉に喩え、後世に理解を委ねるかのような以下の発言をしている。 僕がやっていることが写真に出ます。あるいは、週刊誌で紹介されます。それはその段階においてみんなにわかるわけでしょう。ああ、あいつはこんなことをやっている、バカだねえ、と。でも、その「バカだねえ」ということを幾ら説明しても、僕をバカだと思った人はバカだと思い続けます。(中略)ですから、僕は、スタンダールじゃないけれども、happy few がわかってくれればいいんです。僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動の方が分かりにくいんだ、という自信があるんです。(中略)僕が死んでね、50年か100年たつとね、「ああ、わかった」という人がいるかもしれない。それでも構わない。生きているというのは、人間はみんな何らかの意味でピエロです。これは免れない。佐藤首相でもやっぱり一種のピエロですね。生きている人間がピエロでないということはあり得ないですね。人間がピエロというのは、ある意味で芝居をやらなくちゃ生きていけない。(ジョン・ベスターの問い) 芝居をやらなきゃ生きていけないのは、きっと神様が我々を人形に扱っているわけでしょう。我々は人生で一つの役割を、puppet play(パペット・プレー)を強いられているんですね。 — 三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月)
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