決闘と死亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 10:40 UTC 版)
「ジェームズ・アレグザンダー・シートン」の記事における「決闘と死亡」の解説
1840年代初頭のある時期、ジェームズとスザンナ・シートンはハンプシャーのポーツマス近くのサウスシー(Southsea)に部屋複数を賃借した。1845年5月、ジェームズ・シートンは、イザベラ・ホーキー(Isabella Hawkey)に会った。彼女はイギリス海兵隊の将校、中尉ヘンリー・ホーキー(Lieutenant Henry Hawkey)の妻であった。シートンは、夫が不在のときに彼女の下宿を訪れたり贈り物を提供したり、イザベラの追跡を始めた。ヘンリー・ホーキーはこれについての噂を聞き、妻がシートンに会うことを禁じた。 1845年5月19日に、ホーキー家の人々とジェームズ・シートンは、毎週開催された集会、サウスシーのキングズ・ルームで行われた大舞踏会に出席した。そこで、ジェームズはイザベラとダンスした。口論があり、そのときホーキーがシートンを「泥棒でならず者」("blaggard and a scoundrel")と呼ばわって公然と侮辱した。 翌朝早く、ホーキーは下宿に海軍士官、中尉ローレス(Lieutenant Rowles)の訪問を受けた。ローレスはシートンの介添人を演じ、ホーキーに正式な決闘挑戦状を出した。ホーキーは後に射撃場のある銃工店を訪れ、そこで短時間射撃の練習をした。その後、彼は別の店から決闘用ピストルを買い、午後それの練習をした。 その晩、決闘がゴスポート(Gosport)近くのブラウンダウン(Browndown)のビーチで行われた。シートンとローレスはボートでそこを旅し、ホーキーと彼の介添人のイギリス海兵隊中尉チャールズ・ロウズ・ピム(Charles Lawes Pym)は別々に旅をした。介添人が15ペースを測った後、決闘者らはピストルを取り、発砲した。シートンの狙撃ははずれたし、ホーキーのピストルは半撃ち[half-cock、発射準備にしたとき撃鉄がなかば上がって第1段で止まり、引き金を引いても発射しない状態]で、発砲できなかった。決闘の規則によって、事件はそのときりっぱなうちに終わったはずであった。しかしながら、ホーキーが2つ目の銃撃の応酬を主張した。今度はシートンが撃たれ、下腹部に弾丸が1発はいった。 負傷した男は近くにあったヨットに運ばれ、海路短距離をポーツマスまで連れてゆかれた。彼はケベック・ホテル(Quebec Hotel)に連れて行かれ、最終的には手術はロンドンの著名な外科医ロバート・リストン(Robert Liston)の執刀によっておこなわれた。手術はうまくいったように見えたが、しかし感染の兆候がすぐに明らかになり、シートンはすぐに病状が悪化した。1845年6月2日に彼は死亡した。
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