益田元方とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 益田元方の意味・解説 

益田元方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 13:44 UTC 版)

益田 元方(ますだ もとかた、元禄6年(1693年) – 明和3年10月13日1766年11月15日))は、萩藩毛利家の重臣。寄組問田益田家4代。

父は秋里之勝。母は益田就武の娘。正室は益田就高の娘。子に兼慶、広高、娘に児玉広高室、周布周通室がいる。養嗣子に就白がいる。は元信、兼慶、元言、元方。通称は右衛門、図書、河内、孫左衛門。

生涯

元禄6年(1693年)、萩藩大組士(1005石)秋里之勝の二男として生まれる。父の之勝は右田毛利家毛利元倶二男・元平の孫にあたる。母が益田就武の娘であったことから、叔父の益田就賢に養育され益田兼慶と名のる。のちに問田益田家の益田就高の婿養子に迎えられ、萩藩主毛利吉元偏諱を貰い、はじめ元言、のちに元方と名のる。元方が養嗣子となったのちに、養父就高に益田広堯宍道広慶が生まれている。

養父就高から家督を相続し藩の重職に就き、のちに当職に就任し藩政の枢機に関わった。寛延3年(1750年)、隠居にともない当職を辞職し、後任の当職には義弟にあたる益田広堯が就任した。前当職として寛延4年(1751年)、長府藩毛利匡敬(重就)が宗家相続の際に当職広堯、国元加判役宍戸広周毛利広定らと協力して「家続願書」を提出するなどして幕府と交渉に当たり、無事に毛利宗家の家督相続を承認されている。

明和3年(1766年)10月13日死去、享年74。家督は長子兼慶の子で養嗣子の就白が継いだ。

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「益田元方」の関連用語

益田元方のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



益田元方のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの益田元方 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS