益田就賢とは? わかりやすく解説

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益田就賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/09 14:21 UTC 版)

益田 就賢(ますだ なりかた、寛文12年5月15日1672年6月10日) - 享保17年12月4日1733年1月19日[1])は、益田家第26代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家7代。

父は益田就武。母は毛利元任の娘。養父は益田就恒。正室は益田就恒の養女(益田兼祥の娘)、継室は吉川広紀の養女(福原広俊の娘)、継々室は松原信之の娘[1]。子は益田元道福原元貞。娘は毛利広包室、根来勢盛室→益田広明室、毛利元雅室、国司通忠室。養子は兼慶。幼名は百合亀。初名は兼則。通称は小四郎、右衛門、越中、玄蕃。

生涯

寛文12年(1672年)、分家益田就武の次男として生まれる。父就武は益田広兼の弟就之の子で元祥の孫。元禄2年(1689年)、本家益田就恒の養子となる。元禄6年(1693年)、養父就恒の死去により家督を相続する。元禄15年(1702年)、加判役(家老)となり藩主毛利吉広吉元に仕えた。宝永2年(1705年)、瑞林寺を創建する。宝永7年(1710年)、病により隠居して家督を嫡男の元道に譲る。享保17年(1732年)没、享年61。

脚注

  1. ^ a b 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年、p.103。

参考文献




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