益田就祥とは? わかりやすく解説

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益田就祥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/09 14:00 UTC 版)

 
益田 就祥
時代 江戸時代中期
生誕 寛保3年4月28日1743年5月21日[1]
死没 文化元年5月4日1804年6月11日[1]
改名 兼祥→就祥
別名 通称:喜次郎、越中、又兵衛
戒名 雄嶽院快翁全活[1]
幕府 江戸幕府
長州藩
父母 父:益田広尭、母:繁沢貞雄の娘
正室:毛利広定の養女(松波資邑の娘)
就恭、佐世親長、娘(繁沢房詮室)
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益田 就祥(ますだ なりなが)は、益田家第29代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家10代。

生涯

寛保3年(1743年)、毛利家家老益田広尭の子として生まれる。明和2年(1765年)、広尭の死去により家督を相続する。加判役(家老)、留守居役となる。安永7年(1776年)、当職(国家老・執政)となり、幕府の課役などへの出費で逼迫した藩財政の改革に当たった。

天明3年(1783年)、財政建て直しのために、撫育方収入(検地などによる増収入を、藩の財政に繰り入れず、開作(干拓)や殖産興業の資金としたもの)を数年間所帯方(藩の財政)に繰り入れることを藩主毛利治親に進言して、治親と先代藩主重就の不興を買い、罷免の上で逼塞を命じられる。翌天明4年(1784年)処分を解かれるが、重就の意向で隠居を命じられ、家督を嫡男の就恭に譲る。文化元年(1804年)卒。享年62。

脚注

  1. ^ a b c 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年、p.104。

参考文献




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