益田尹兼とは? わかりやすく解説

益田尹兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/26 03:31 UTC 版)

Jump to navigation Jump to search
 
益田尹兼
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄8年9月3日[1]1565年10月6日
改名 益田熊童丸(幼名)→益田尹兼
別名 通称:又次郎
戒名 桂香院殿全屋尹兼大居士
官位 越中守
主君 大内義興義隆義長毛利元就
氏族 藤姓道兼流御神本氏益田氏
父母 父:益田宗兼、母:陶氏の娘
藤兼、兼任、女(寺戸氏室)

益田 尹兼(ますだ ただかね)は、戦国時代武将石見国国人である益田氏の第18代当主。幼名は熊童丸。通称又次郎[1]。官位は越中守[1]。父は益田宗兼[1]、母は陶氏の娘。子に益田藤兼[1]

生涯

石見国国人である益田氏の第17代当主・益田宗兼の子として生まれる。

永正5年(1508年)の大内義興の上洛に父・宗兼と共に従う。永正8年(1511年)の船岡山合戦にも参戦し、父の戦功により足利義尹(後の足利義稙)から「尹」の偏諱を賜り、「尹兼」と名乗った。しかし、在京中に三隅興兼が石見西部へ攻め入ったため、父に先立って帰国し、永正15年(1518年)まで交戦した。

大永6年(1526年)に出雲国から石見国へ侵攻した尼子経久を迎え撃ち、翌大永7年(1527年)には毛利元就天野興定と共に安芸鳥子城を攻め落とした。享禄3年(1530年)には吉見頼興高津川の支流匹見川の水域に関する協定を結んだ。

天文13年(1544年)に嫡男・藤兼に家督を譲り、以後20年に渡って藤兼を後見した後、永禄8年(1565年9月3日に死去。法名は桂香院殿全屋尹兼大居士[1]

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f 今井尭ほか編 1984, p. 346.

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「益田尹兼」の関連用語

益田尹兼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



益田尹兼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの益田尹兼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS