天野興定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/19 07:26 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2017年3月)
|
|
|
---|---|
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 文明7年(1475年) |
死没 | 天文10年(1541年)[注釈 1] |
別名 | 六郎[1] |
戒名 | 高玄寺月光英心[1] |
墓所 | 安芸国志芳庄高立寺[1] |
官位 | 民部大輔[1](受領名) |
主君 | 大内義興→尼子経久→大内義隆 |
氏族 | 藤姓生城山天野氏 |
父母 | 父:天野興次[1] |
兄弟 | 興定、興与[1] |
妻 | 天野元貞娘 |
子 | 隆綱[1]、元定[1] |
天野 興定(あまの おきさだ)は、戦国時代の武将。大内氏、尼子氏の家臣。
出自
安芸天野氏は、藤原南家工藤氏の一族で安芸国に下向し国人化したもので、興定の系統は天野顕義から始まる生城山天野氏にあたる。同じく安芸の国人である天野隆重・天野隆良・天野元明の一族の系統は金明山天野氏である。
略歴
文明7年(1475年)、天野興次の子として誕生。父同様、近隣で勢力を誇っていた大内義興の偏諱を受けて興定と名乗る[注釈 2]。
天野氏は安芸に土着する国人領主で、毛利氏や宍戸氏などとは元々同格の立場である。代々周防国の大内氏の影響下にあったが、出雲国の尼子経久の勢力が安芸に浸透してくるようになると、離反し尼子氏へ属したが、勢力を盛り返した大内義興の攻撃を受け、滅亡寸前にまで追い込まれる。しかし、毛利元就の取り成しもあって大永5年(1525年)に降伏が許され、以後は親大内・親毛利の立場を貫いた。
天文9年(1540年)、吉田郡山城の戦いでは、毛利氏救援の援軍を率いて出陣。大軍を率いて安芸に乗り込んだ尼子晴久の撃退に成功する。翌、天文10年(1541年)には、毛利氏と共に尼子方の佐東銀山城の武田信実を攻略するも、同年に病死した。家督は子・隆綱が継いだ。
系譜
脚注
注釈
出典
参考文献
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。
OCLC 703821998。全国書誌番号:
73004060。
国立国会図書館デジタルコレクション
登場作品
天野興定(あまの おきさだ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 18:23 UTC 版)
「毛利元就 誓いの三矢」の記事における「天野興定(あまの おきさだ)」の解説
※この「天野興定(あまの おきさだ)」の解説は、「毛利元就 誓いの三矢」の解説の一部です。
「天野興定(あまの おきさだ)」を含む「毛利元就 誓いの三矢」の記事については、「毛利元就 誓いの三矢」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 天野興定のページへのリンク