生城山天野氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 18:47 UTC 版)
天野顕義の時に安芸国志芳荘(旧志和町、現東広島市)に下向して米山城を築いて居城とした。生城山天野氏は鎌倉時代から室町時代にかけて同地を中心に勢力を扶植し、1462年には天野家氏が足利義政の命を受け河内国に出陣する等、活発な軍事行動により安芸国内での勢力を伸ばした。そして大内氏に従って安芸国の国人として勢力を拡大させた。 1467年から始まる応仁の乱では、大内政弘に従って山名宗全軍に参加。畿内各地を転戦した。大内氏に従属する立場に変わりはなかったが、徐々に安芸国人としての意識が強くなっていたようで、当主の天野興定は先述のように1512年に安芸国人で一揆契約を結んでいる。 出雲国の尼子経久が大内領であった備後国・安芸国に進出してくると、国人一揆衆の多くは尼子氏に従った。しかし、この背反を快く思わない大内義興・大内義隆親子は安芸に出陣し、天野興定の居城の米山城に陶興房の軍勢を差し向けて、包囲攻撃するに及んだ。天野氏の苦境を察した毛利元就が大内義興に和睦の仲介を行い、開城して降伏の運びとなった。後に興定は米山城に復帰して、1540年には毛利元就が籠もる吉田郡山城を攻撃する尼子氏に対抗すべく、援軍として出陣している(吉田郡山城の戦い)。翌1541年に天野興定は死去して、子の天野隆綱が家督を継いだ。 1551年に大寧寺の変で大内義隆が自害すると、天野隆綱は陶隆房の傀儡当主大内義長に従った。しかし1555年の厳島の戦いに際しては毛利元就に従って活躍するも、同年に死去。隆綱には子が無く、弟の天野元定が天野氏を継いだ。しかしその天野元定も、1569年に病死した。元定にも男子がおらず、結局毛利元就の七男・毛利元政が婿養子として迎えられ天野氏を相続、天野元政を名乗った。元政は後に毛利に復姓し、右田毛利氏の祖となった。天野氏は元政の子が継ぎ、江戸時代も続いた。
※この「生城山天野氏」の解説は、「天野氏」の解説の一部です。
「生城山天野氏」を含む「天野氏」の記事については、「天野氏」の概要を参照ください。
- 生城山天野氏のページへのリンク