金明山天野氏
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天野政貞から始まる天野氏で、政貞と生城山初代の天野顕義とは従兄弟である。政貞は南北朝の争乱では新田義貞に従って北朝と戦った。嫡男を失っていた政貞は新田義顕の息子を養子として迎え、天野顕政と名乗らせた[要出典]。南朝の勢力が衰えると、一族の所領があった安芸国堀荘に下向、金明山城を居城とした。 その後も南朝方として活動したが、天野顕元の代に北朝に転じて、大内氏傘下の安芸国国人として勢力を扶植した。後に生城山天野氏からも養子を迎え、その天野元貞は1512年、毛利興元の呼び掛けによって、石見国・安芸国の国人高橋元光や吉川元経、近隣の平賀弘保、小早川弘平、安芸国南部の阿曽沼弘秀や矢野城主で水軍を抱える野間興勝、そして生城山天野氏の天野興定と国人一揆契約を結んだ。 元貞の子には月山富田城代として尼子再興軍から城を守った天野隆重や、その弟で1551年の大寧寺の変で、大内義隆を最後まで守って討死した天野隆良がいる。隆重の子天野元明の家は、元明末弟の天野元信が継ぐが、元信は1605年に萩城築城の遅れの責任を取らされ、岳父の熊谷元直と共に処刑された。隆重のもう一人の子、天野元祐は、毛利元就の命で天野隆良の養子となり、月山富田城や備中松山城を守った。1584年に隆重が死去すると、家督は天野元嘉が継いだ。1600年の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長2国に移封されると、それに従い長州藩士として江戸時代まで続く。
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