金日成体制から金正日体制後期まで
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「張成沢」の記事における「金日成体制から金正日体制後期まで」の解説
江原道川内郡出身。金日成総合大学の卒業生。 1968年から1972年までソビエト連邦のモスクワに留学していた。 若い頃は容姿端麗かつ性格も開放的で酒にも強く、大学では性別問わず人気者であった。頭の回転が速く、機敏で気の利く遊び人だった性分を、当時上級生だった金正日に気に入られ、幼少時に事故で死去していた弟の代わりの様に可愛がられる。金敬姫とは大学の同級生であり、張成沢に憧れ惹かれていた金敬姫からのアプローチをきっかけに付き合うようになっていた。生来の遊び癖気質やその出身身分の低さを金敬姫の実父であり、かつ当時、既に国内最高権力者の地位にあった金日成には疎んじられ、一時江原道の元山経済大学に強制転学させられる。実妹の悲しみを払いたい想いや金正日自身の張成沢の将来への期待などから、やがて金正日のとりなしで中央に復帰し、1972年に金敬姫と結婚、学生時代からの金正日の希望通り、彼の側近となった。しかしその後、一時敬姫との夫婦仲が悪くなり、DVなどにも及ぶようになったことを金正日が激怒。1978年から2年間、ガンソン製鉄所で思想化教育を受ける。この際、金正日の妻である成恵琳の助力で立ち直ったことから恩義を感じ、その子の金正男を後継者に推すようになったという。 金日成体制下では、平壌市党委員会指導員としてキャリアをスタートさせ、党組織指導部外交部担当、党員登録課長を務めながら実務を学び、1982年に党青少年事業部副部長、1985年に党青少年事業部第一副部長、1988年に党青少年事業副部長、1989年に青年および三大革命小組部長に就任し三大革命赤旗獲得運動を推進するなど、金正日の側近としてキャリアを進めてきた。 金日成が死去し金正日体制が発足した後は、1995年に朝鮮労働党中央委員会組織指導部第一副部長(行政担当)に就任し、1997年から2000年まで社会安全部内の秘密警察組織「深化組」を指揮、2万5千人にも及ぶ大規模な粛清を行った(深化組事件)。 2003年10月より以後、消息報道が長期間途絶える。ほどなく2004年2月頃には、「権力欲による分派行為」を疑われて失脚したという情報も飛び交い、同時に張が所掌していた党行政部も解体された。これについては、張と同職の党中央委員会組織指導部第一副部長(組織担当)の李済剛(リ・ジェガン)により失脚させられたとの疑いがある。李済剛は金正日の次男金正哲を後継者に推していたため、長男の金正男を後継者に推していた張成沢にとって政敵だったとされる。しかし2006年1月29日の朝鮮中央通信の報道などで、張が2005年12月に復権していたことが判明。復権の際、北朝鮮の報道では、党中央委員会組織指導部第一副部長ではなく、単に党中央委員会第一副部長として紹介された。なお、首都建設部第一副部長として復権したとされている。 復帰前後の2005年と2006年9月には、張が乗っていた乗用車に軍用トラックが衝突して張が重傷を負う事故が発生。 2007年には、国家安全保衛部、人民保安省、中央検察所、中央裁判所などの公安部門を統括する党行政部が復活し、党行政部長に張が就任し、本格的に権力への復帰を果たした。これと同時に党組織指導部の思想検閲・査定の権限が、党行政部に大幅に移管したのではないかと分析されたが、専門家により意見は分かれた。張の失脚後に、李済剛が張が所掌していた業務を一手に引き受け「労働党内の総督」と呼ばれるほどの権勢を揮ったことから、金正日が李済剛を牽制するために張を復帰させたものと分析されている。
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