金日成の上官とは? わかりやすく解説

金日成の上官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:28 UTC 版)

呉成崙」の記事における「金日成の上官」の解説

1929年の秋、中国共産党より満州入り指令があり、活動をはじめる。最初の仕事は、コミンテルンの「一国一党原則により、磐石県根拠としたML派系の朝鮮共産党満州総局働きかけ中国共産党加入促進すること で、このため呉は、日本側からML派だと認識されていたようだ。この当時呉は、在満州朝鮮人民族派朝鮮革命軍のうち、鐘洛率い左派にも働きかけていることが、日本側の探索資料でわかるが、この一団には、まだ10代金成柱、後の金日成所属していた。 1931年それまで呉が属していた中共満州省委南満特別行動委員会そのまま磐石県委となるが、呉は書記要職に就いている。しかし、翌1932年11月統一戦線結成失敗過ちなどを指摘され解任されその後2年余り中共幹部中に呉の名前は見られなくなる。ちょうどこの時期、東満特委は民生団事件呼ばれる朝鮮人共産党員粛正起こっていて、呉は東満委がカバーしていた間島実家があっただけに、身を引いていたとも考えられる。なお、このころの呉は全光の変名使っている。また、1934年朝鮮総督府警務局国外ニ於ケル容疑朝鮮人名簿によれば、呉の住居は「吉林省琿春県首善郷 松亭になっているという。 1932年満州国成立する同時に中共磐石県委は、わずかな人数ながら反満抗日義勇軍組織していた。これが、他の抗日軍を吸収して大きくなっていき、1934年11月には、東北人民革命軍第一軍となっていた(参照抗日パルチザン#満州抗日パルチザン)。翌1935年、呉は第一軍第二師の政治部主任となって幹部復帰する。さらに1936年、南満の東北人民革命軍第一軍第二軍)は、再編成され東北抗日聯軍第一路軍となり、呉は第一路軍第二軍政治部主任となり、引き続き要職をしめた。このとき、第二軍六師師長金日成であり、呉は直接の上官にあたる。後には第一路軍総務処長軍需処長となり、常に金日成の上官であり続けた。 この時代の呉の事績特筆すべきなのは、1936年6月、在満韓人祖国光復会設立したことだ。これは、民生団事件のしこりを断ち切り、在満州朝鮮人の力を結集しようという目的持った組織で、祖国独立をかかげることによって、満州国境に近い朝鮮国内にも支部をひろげることができた。金日成指揮した普天襲撃は、光復会甲山支部(のちの朝鮮労働党甲山派の手引きによって、成功したのである光復会については、宣言文規約文が残っていて、発起人には呉を含めて三人古参朝鮮人共産党員名を連ねている。このメンバーの中で筆頭は呉であり、多く支部組織したのも、呉を中心とした仕事だったと思われる。呉自身、この仕事誇り思っていたようで、張志楽への手紙で、祖国光復会中央委員メンバーであることを告げると同時に、「当地での仕事は現在たいへん成功しており、自分もついに大きな仕事をなし遂げたと書いている。

※この「金日成の上官」の解説は、「呉成崙」の解説の一部です。
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