金日成の上官
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1929年の秋、中国共産党より満州入りの指令があり、活動をはじめる。最初の仕事は、コミンテルンの「一国一党」原則により、磐石県を根拠としたML派系の朝鮮共産党満州総局に働きかけて中国共産党加入を促進すること で、このため呉は、日本側からはML派だと認識されていたようだ。この当時呉は、在満州の朝鮮人民族派・朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派にも働きかけていることが、日本側の探索資料でわかるが、この一団には、まだ10代の金成柱、後の金日成が所属していた。 1931年、それまで呉が属していた中共満州省委南満特別行動委員会がそのまま磐石県委となるが、呉は書記の要職に就いている。しかし、翌1932年11月、統一戦線結成失敗の過ちなどを指摘されて解任され、その後2年余り、中共幹部の中に呉の名前は見られなくなる。ちょうどこの時期、東満特委は民生団事件と呼ばれる朝鮮人共産党員の粛正が起こっていて、呉は東満委がカバーしていた間島に実家があっただけに、身を引いていたとも考えられる。なお、このころの呉は全光の変名を使っている。また、1934年の朝鮮総督府警務局「国外ニ於ケル容疑朝鮮人名簿」によれば、呉の住居は「吉林省琿春県首善郷 松亭」になっているという。 1932年、満州国が成立すると同時に、中共磐石県委は、わずかな人数ながら反満抗日の義勇軍を組織していた。これが、他の抗日軍を吸収して大きくなっていき、1934年11月には、東北人民革命軍第一軍となっていた(参照抗日パルチザン#満州の抗日パルチザン)。翌1935年、呉は第一軍第二師の政治部主任となって、幹部に復帰する。さらに1936年、南満の東北人民革命軍(第一軍、第二軍)は、再編成されて東北抗日聯軍第一路軍となり、呉は第一路軍第二軍の政治部主任となり、引き続き要職をしめた。このとき、第二軍六師の師長は金日成であり、呉は直接の上官にあたる。後には第一路軍総務処長、軍需処長となり、常に金日成の上官であり続けた。 この時代の呉の事績で特筆すべきなのは、1936年6月、在満韓人祖国光復会を設立したことだ。これは、民生団事件のしこりを断ち切り、在満州の朝鮮人の力を結集しようという目的を持った組織で、祖国の独立をかかげることによって、満州国境に近い朝鮮国内にも支部をひろげることができた。金日成が指揮した普天堡襲撃は、光復会甲山支部(のちの朝鮮労働党甲山派)の手引きによって、成功したのである。光復会については、宣言文、規約文が残っていて、発起人には呉を含めて、三人の古参朝鮮人共産党員が名を連ねている。このメンバーの中で筆頭は呉であり、多くの支部を組織したのも、呉を中心とした仕事だったと思われる。呉自身、この仕事を誇りに思っていたようで、張志楽への手紙で、祖国光復会中央委員のメンバーであることを告げると同時に、「当地での仕事は現在たいへん成功しており、自分もついに大きな仕事をなし遂げた」と書いている。
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