金日成との対立、そして粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 04:57 UTC 版)
「金枓奉」の記事における「金日成との対立、そして粛清」の解説
.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 失脚前 失脚後 消える金枓奉南日より提出された朝鮮戦争停戦協定に署名する金日成。本来、右奥には金枓奉、および朝鮮民主女性同盟委員長の朴正愛がいたが、同時に撮影されたと見られる別の写真にはトリミング・修正が加えられ、両者の存在は消されている。朴正愛もまた粛清されたものと考えられている。 1950年から始まった朝鮮戦争では、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}開戦の是非をめぐって金日成と対立した。開戦を強行しようとする金日成に対して、金枓奉は開戦に反対だった[要検証 – ノート]のである。 一方で、朝鮮人民軍第6師団第13連隊政治保衛部責任将校だった崔泰煥の証言では、金枓奉は開戦直前の6月23日に第6師団幹部を前にして時局演説を行い、その最後に「ソウルは朝鮮半島の心臓部である。心臓を掌握すれば全身を掌握することができる。したがって我々がソウルを掌握すれば朝鮮半島全体を掌握したも同然である。我々は一週間でソウルを掌握して南朝鮮国会を召集し、新大統領を選出して南北統一を成し遂げる」と述べたという。 その後、独裁体制を確立しようとする金日成に集団指導体制を要求する[要出典]など、金枓奉は金日成への批判を強めていった。金枓奉ら延安派と金日成ら満州派の対立は深刻化していき、結局、1957年9月20日に金枓奉は最高人民会議常任委員長を解任され、崔庸健が後任の最高人民会議常任委員長となった。そして翌年3月の第1回党代表者会議において、金枓奉を中心とする延安派は粛清された。金枓奉は党を除名された上、この年のうちに処刑されたと見られる。
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