金日成との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 09:49 UTC 版)
彭徳懐の金日成への評価は一貫して低く、朝鮮戦争休戦後も彭徳懐は延安派の朴一禹を金日成に替えて朝鮮労働党総書記に据えようとしたり、8月宗派事件ではソ連のアナスタス・ミコヤンと組んで北朝鮮に内政干渉したため、1959年に彭徳懐が失脚するまでの間、中朝関係は冷え込んでいた。 1950年10月下旬、中国人民志願軍司令官となった彭徳懐は金日成に面談し、「この戦争は私とマッカーサーのものだ。貴下の口出しする余地はない。私が人民解放軍、八路軍副司令官の時、貴下は抗日東北連軍の師長にすぎなかったではないのか。」と一喝して、自軍を壊滅寸前にした金日成の拙劣な戦争指揮を糾弾し、中朝連合司令部を組織して主導権を握った[要検証 – ノート]。
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