右田毛利氏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 学問 > 日本史辞典 > 右田毛利氏の意味・解説 

右田毛利氏 (みぎたもうりし)

毛利元就の子供の1人で、毛利氏家臣天野[あまの]家を継いでいた毛利元政もうりもとまさ]がそのはじまりです。熊毛郡三丘[みつお]を領地としていましたが、子供の元倶[もととも]の時代右田領地替えになり、名字を「毛利」に戻しました右田天徳寺てんとくじ]を墓所にしています。支配地は右田小野牟礼のほか、美祢[みね]郡や阿武[あぶ]郡にありました

関連項目

右田毛利家

(右田毛利氏 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/25 08:40 UTC 版)

右田毛利家
一文字三星
本姓 大江氏季光流
家祖 毛利元政
種別 武家
士族
華族男爵
主な根拠地 周防国右田
山口県佐波郡右田村
凡例 / Category:日本の氏族

右田毛利家(みぎたもうりけ)は、毛利家庶流にあたる武家士族華族だった家。江戸時代には長州藩の一門家老家で、維新後ははじめ士族、後に華族の男爵[1]

概要

毛利元就の七男・毛利元政(天野元政)を祖とし、関ヶ原の戦いの後周防三丘(現在の山口県周南市)に1万石を与えられたが、元政の嫡男である元倶が同じく一門家老であったと宍戸家と領地を交換し、1625年寛永2年)に周防右田(現在の山口県防府市)に移封され1万7000石を知行した[1][2]。以降は右田毛利と言われ、長州藩の一門家老となる。なお、家格は一門家老中では、宍戸家に次ぐ。

右田毛利家の居館は現在の上右田地域にあった(館や遺構は現存していないが、その名残として山口県道24号防府徳地線沿いにある防長交通バス停留所が「右田毛利邸前」となっている)。また、右田毛利家が清和源氏の流れを汲むことから、右田ヶ岳の山麓にあった総受寺を天徳寺と改めて、菩提寺に定めている[3]

2代当主元倶は、1628年(寛永5年)に郷校時観園(じかんえん)を建てて家臣の子供の学問を奨励した[4]儒学者の滝鶴台(たきかくだい)[5]などが教師を務めていた)。

幕末維新期の当主親信戊辰戦争で戦功を上げた[1]明治維新後は当初士族となったが、1897年(明治30年)10月27日に当時の当主祥久が父親信の功により華族の男爵に叙された[1][2]

その子重雄の代に右田毛利男爵家の邸宅は山口県佐波郡右田村にあった[2]

歴代当主

系譜

脚注

  1. ^ a b c d 松田敬之 2015, p. 733.
  2. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 664.
  3. ^ 天徳寺の歴史 - 曹洞宗 天徳寺
  4. ^ 時観園 - ほうふWeb歴史館(防府市教育委員会)
  5. ^ 滝鶴台 - コトバンク

参考文献

関連項目

外部リンク

  1. ^ 月の桂の庭 - 防府観光コンベンション協会


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「右田毛利氏」の関連用語

右田毛利氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



右田毛利氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
防府市教育委員会防府市教育委員会
Copyright 2025,Hofu Virtual Site Museum,Japan
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの右田毛利家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS