毛利就直とは? わかりやすく解説

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毛利就直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/14 15:16 UTC 版)

毛利 就直(もうり なりなお、寛永12年9月3日1635年10月13日[1] - 宝永6年12月15日1710年1月17日))は、長州藩一門家老である吉敷毛利家の4代。

父は一門右田毛利家毛利元法。兄に毛利就信。養父は毛利元包。正室は元包の娘。継室は春日仲義の姉。継々室は北尾重之の娘。子は毛利広規、毛利就包(はじめ村上武真)、毛利広政毛利広包、養女は村上元敬室(春日仲義次女)、村上元敬後室(春日仲義三女)。幼名は萬吉。通称は外記、市正、主殿。

生涯

寛永12年(1635年)、一門家老・毛利元法の次男として生まれる。後に吉敷毛利元包の養子となり、寛文11年(1671年)に父の隠居により家督を相続する。藩主毛利綱広吉就吉広吉元に仕え、当職(国家老・執政)を務めた。延宝8年(1680年)、徳佐八幡宮社殿を再建する。貞享3年(1686年)、責任者となって藩内の貞享検地を行う。貞享4年(1687年)より周防国平田の干潟の開作(干拓事業)を行い、元禄15年(1702年)に1057石の加増を受けた。

宝永6年(1709年)12月15日卒。享年75。

長男の毛利民部広規(同名の阿川毛利氏・毛利宇右衛門広規とは別人)は、元禄3年(1690年)に34歳で死去した。次男の毛利就包(村上武真)が、養子先の村上家から帰家して嫡男となるも、元禄8年(1695年)に33歳で死去した。最終的に家督は五男・毛利広包が相続した。四男の毛利広政は実家の右田毛利家を相続した。

脚注

  1. ^ 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年、p.78。

参考文献

  • 石川卓美『防長歴史用語辞典』[要文献特定詳細情報]



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