毛利宗広とは? わかりやすく解説

毛利宗広 (もうりむねひろ)

萩藩6代藩主です。宗広には世継ぎ[よつぎ]がいなかったので、世継ぎ生まれるまで、長府ちょうふ藩主毛利重就もうりしげたか]をその間世継ぎにしていました結局世継ぎ生まれないまま亡くなってしまい、重就が萩藩藩主なります


毛利宗広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 02:35 UTC 版)

 
毛利 宗広
時代 江戸時代中期
生誕 享保2年7月6日[1][2]1717年8月12日
死没 寛延4年2月4日1751年3月1日[1]
改名 百合助[1](幼名)、維広(初名)[1]、宗広
別名 大膳[1]、松平大膳[2]
戒名 観光院殿前二州大守四品拾遺輔閥兼大官令天倫常沢大居士[1]、観光公[1]
墓所 山口県萩市桜江の大照院[1]
官位 従五位下大膳大夫[1]従四位下[1]侍従[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
長州藩
氏族 毛利氏
父母 毛利吉元[1][2]、永昌院[1]
兄弟 元朝(宗元)、元陳、宗広、皆姫、寧ら
松平宗昌娘勝姫[1]
齢、百合姫ら
重就[3]
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毛利 宗広(もうり むねひろ)は、江戸時代中期から後期の大名毛利氏20代当主。長州藩6代藩主。5代藩主・毛利吉元の五男[1][2]。正室は松平宗昌の娘・勝姫(隔芳院・融芳院)。は初め 維広 これひろ[1]、後に8代将軍徳川吉宗の諱を拝領して宗広に改名した[2]

経歴

享保2年(1717年7月6日萩城で生まれる[1][2]。長兄で嫡子だった宗元が享保6年(1721年)に早世したため世嗣となる。享保12年(1727年)に松平大膳と称し、諱を維広とする[2]。同年、将軍・吉宗から偏諱を受け宗広と改名する[2]。享保16年(1731年)、吉元の死去により家督を相続し15歳にして藩主に就く[1][2]

その施政は、岡山藩の倉安川を参考に萩城下に藍場川を造成し、水運の便を図ったり、神社仏閣の建設にも力を入れた。治世中の出来事として、寛保2年江戸洪水の手伝い普請がある。

寛延4年(1751年2月4日、35歳で死去した[1]。世嗣となる男児がいなかったため、支藩である長府藩から重就末期養子として迎えられた。

系譜

偏諱を受けた人物

※死後
  • 毛利重(重就の養子。宗広の遺言により娘婿となり、重就の嫡子となるも早世)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 時山弥八編 1916, p. 100.
  2. ^ a b c d e f g h i 吉田 1976, p. 236.
  3. ^ 時山弥八編 1916, p. 101.

参考文献




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