毛利治親とは? わかりやすく解説

毛利治親 (もうりはるちか)



毛利治親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/10 07:20 UTC 版)

 
毛利 治親
毛利治親像(毛利報公会蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦4年6月15日[1]1754年8月3日
死没 寛政3年6月12日1791年7月12日[1]
改名 岩之允[1]幼名)→徳元[1]→治元[1]→治親[1]
戒名 容徳院殿前二州太守大官令四品拾遺補闕仁山応寿大居士[1]
墓所 山口県萩市大照院[1]
官位 従五位下壱岐[1]、従四位下[1]、侍従[1]、大膳大夫[1]
長州藩藩主
父母 父:毛利重就[1]、母:立花貞俶娘・登代子(瑞泰院)[1]
兄弟 匡満治親匡芳親著
正室:田安宗武の娘・ とき子(邦媛院)[2]
側室:小泉氏(明善院)[3]、岡田氏(宝池院)[4]
斉房[5]斉熙[5]細川興昶[5]、熙載(毛利房直養子)[3]水野忠篤[3]、多美(有馬頼端婚約者)[2]、他
テンプレートを表示

毛利 治親(もうり はるちか)は、江戸時代後期の大名毛利氏22代当主。長州藩8代藩主。7代藩主・毛利重就の四男[1]嫡出子

生涯

宝暦4年(1754年6月15日江戸で生まれる[1]。四男だったが正室の子で[1]、かつ重就が養嗣子にしていた重広(従兄にあたる)や実兄たちが相次いで早世したため、世子となる。明和5年(1768年)3月に元服して従五位下、壱岐守に叙任する。後に従四位下に叙任し、10代将軍徳川家治から偏諱を受けて、初名の 徳元 のりもとから 治元 はるながに改名した(後に治親と改名)。

薩摩藩の「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)では天明元年(1781年)生まれの奥平昌高が治広(松平大膳大夫治元)の養子になっていたとしている。

天明2年(1782年8月28日、父・重就の隠居により跡を継ぐが[1]寛政元年(1789年)に父が死去するまでは実権は全くなく、また父の死からわずか2年後の寛政3年(1791年6月12日に江戸で死去したため[1]、治績などはほとんどない影の薄い藩主であった。享年38[1]。跡を長男の斉房が継いだ。

墓所は山口県萩市椿の大照院[1]

系譜

偏諱を受けた人物

治親時代 (*「親」の字は南北朝期の毛利氏当主(毛利時親貞親親衡師親(元春)の4代)が代々使用した字でこれに由来する)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 110.
  2. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 111.
  3. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 113.
  4. ^ 時山弥八編 1916, p. 114.
  5. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 112.

参考文献




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「毛利治親」の関連用語

毛利治親のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



毛利治親のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
防府市教育委員会防府市教育委員会
Copyright 2025,Hofu Virtual Site Museum,Japan
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの毛利治親 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS