毛利匡芳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/13 13:59 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝暦11年1月9日(1761年2月13日)[1] または宝暦8年1月15日(1758年2月22日)[2] |
死没 | 寛政4年6月18日(1792年8月5日) |
改名 | 政次郎、匡豊、匡芳 |
戒名 | 功篤院殿哲嵓良壽大居士 |
墓所 | 山口県下関市長府の功山寺 東京都港区高輪の泉岳寺 |
官位 | 従五位下・甲斐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 長門長府藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 | 毛利匡敬(重就)、留楚 |
兄弟 | 好、佐代、匡満、友、勢代、治親、澄、 匡芳、親著、列、多鶴、長、内藤信旭正室ら |
妻 | 宝珠院、鏡貞院 |
子 | 元義 |
毛利 匡芳(もうり まさよし)は、江戸時代中期の大名。長門国長府藩10代藩主。官位は従五位下・甲斐守。
略歴
長州藩主毛利重就(元は長府藩8代藩主・毛利匡敬)の五男として江戸にて誕生する。幼名は政次郎。諱は始め匡豊、のち匡芳に改めた。
明和6年(1769年)、兄で先代藩主の毛利匡満が嗣子なくして若死にしたため、跡を継いだ。安永3年(1774年)12月に叙任する。天明3年(1783年)5月、父・重就による幕府への嘆願で城主格となった。節倹条例や奢侈禁止令を出して藩財政を再建し、さらに文武発展を目指して藩校・敬業館を開いた。
寛政4年(1792年)6月18日、江戸にて死去し、跡を長男の元義が継いだ。法号は功篤院殿哲嵓良壽大居士。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺、山口県下関市長府の功山寺。
系譜
- 父:毛利重就(1725年 - 1789年)
- 母:留楚(? - 1810年) - 瑞順院、武藤氏
- 正室:宝珠院(1761年 - 1790年) - 右大臣西園寺賞季の娘
- 継室:鏡貞院(? - 1836年) - 西園寺賞季の娘
- 側室:吉浦
- 次女:数子(1792年 - 1793年)
脚注
固有名詞の分類
- 毛利匡芳のページへのリンク