毛利匡邦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 毛利匡邦の意味・解説 

毛利匡邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 02:41 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
毛利匡邦
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦11年10月2日1761年10月29日
死没 天保3年10月7日1832年10月30日
改名 寅之進(幼名)、匡邦
別名 政美
戒名 常明院少翁如林
墓所 東京都港区白金台の瑞聖寺
官位 従五位下讃岐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
長門清末藩
氏族 毛利氏
父母 毛利政苗、妙心院
兄弟 元貞、匡邦毛利広圓正室、冷泉為栄室、織田輔宜継室、戸川逵恒正室、桂厳院ら
毛利重就娘長子吉田良倶娘慈明院日野資矩養女寂照院
木村氏
匡民毛利元義養女、政明
テンプレートを表示

毛利 匡邦(もうり まさくに)は、長門国清末藩4代藩主。

生涯

宝暦11年(1761年)10月2日、第3代藩主・毛利政苗の七男として江戸で生まれる。兄たちが次々と早世したため、宝暦13年(1763年)2月に世子となり、安永4年(1775年)7月29日の父の隠居で家督を継いだ。12月に従五位下、讃岐守に叙任している。

藩政においては天明7年(1787年)に藩校・育英館を創設し、民政や人材登用など、様々な藩政改革を行なったが、この改革が逆に財政悪化を招き、遂には改革反対派の家臣と対立する有様となった。

このような中で、長男・匡民の早世により、文化15年(1818年)3月4日、養子の政明に家督を譲って隠居したが、その政明がすぐに死去したため、政明の養子・元世を婿養子として跡を継がせた。

天保3年(1832年)10月7日に江戸で死去した。享年72。

系譜




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「毛利匡邦」の関連用語

毛利匡邦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



毛利匡邦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの毛利匡邦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS