織田輔宜とは? わかりやすく解説

織田輔宜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 00:59 UTC 版)

 
織田輔宜
時代 江戸時代中期
生誕 享保17年(1732年
死没 寛政11年8月29日1799年9月28日
別名 通称:幸次郎
墓所 東京都港区泉岳寺
官位 従五位下丹後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
大和芝村藩
氏族 織田氏(長益系長政流)
父母 父:織田長亮、母:細川有孝養女
兄弟 輔宜、益聡、長教南部信興正室、
本善寺住詮室など3男4女
正室:土岐頼稔
継室:毛利政苗
実子無し
養子:長教
特記
事項
織田信長、徳川家康・松平信康父子、細川幽斎・細川忠興父子、明智光秀、小笠原秀政の直系子孫。
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織田 輔宜(おだ すけよし)は、江戸時代中期の大名大和国芝村藩7代藩主。通称は幸次郎。官位従五位下丹後守。長政流織田家7代。

生涯

6代藩主・織田長亮の長男として江戸にて誕生。生母が父の正室であることから系図上は長男とされるが、実際は次男または三男であった可能性もある。

享保18年(1733年8月2日、父・長亮の死去に伴い家督を相続する。延享2年(1745年12月12日陣屋を戒重から芝村に移転する。延享4年(1747年)11月1日、9代将軍・徳川家重御目見する。同年12月19日、従五位下丹後守に叙任する。

元文2年(1737年5月25日、幕府から幕府領13000石を預けられる。後に93430石にまで加増される。ただし、宝暦3年(1753年)、預地の農民が重税を京都町奉行所に箱訴に及び、芝村騒動が発生した。明和4年(1767年)5月9日、駿府加番を命じられる。

安永7年(1778年2月25日に隠居し、異母弟で養嗣子の長教に家督を譲る。寛政11年(1799年)8月29日、江戸において死去、享年68。墓所は泉岳寺

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