松平勝以
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/04 06:25 UTC 版)
松平 勝以(まつだいら かつゆき[2][4][1])は、江戸時代前期から中期にかけての旗本・大名。下総国多古陣屋9000石の交代寄合であったが、加増を受けて大名に列し、多古藩初代藩主となる。官位は従五位下・甲斐守、豊前守、大蔵少輔。
注釈
- ^ 勝以の項には「隊下大久保長十郎忠音が宅地をこふのところ等閑なることあり」。大久保忠音の項には御小姓組のとき「宅地のことをはじめ請たてまつりしのみにて、其頭転ずるたびごとに申請ざる事をろそかなり」として、勝以と同時に同期間の拝謁停止処分を受けている[6]
- ^ 『寛政譜』では家千代死去の記述がなく「家千代殿の御傅となり、御側の次役に候し、乗輿を許され、仰によりて大蔵少輔にあらたむ」とある[3]。
- ^ この年3月に大坂で享保の大火が発生している。
- ^ 勝以以前には、兄の松平勝則[2]や松平勝直[2]、松平勝郷[7]が白泉寺に葬られている。
- ^ 『寛政譜』では梅園久季の女とある[3]。
- ^ 松平宇右衛門勝秀は勝以の兄(勝義の七男)で別家(300俵)を立てた[8]。
出典
- ^ a b c “松平勝以”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.280、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.286。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.281、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.287。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.280-281、『新訂寛政重修諸家譜1巻』pp.286-287。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.837。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.283、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.289。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.284、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.290。
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