松平勝升とは? わかりやすく解説

松平勝升

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/21 13:38 UTC 版)

 
松平勝升
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永7年5月10日1778年6月4日
死没 文政元年8月19日1818年9月19日[1]
または同年9月5日(同年10月4日[2]
別名 辰次郎→源三郎[注釈 1]
戒名 徳誠院殿泰山道光大居士
墓所 東京都豊島区巣鴨白泉寺
官位 従五位下中務少輔大蔵少輔[4]、豊前守[4]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
下総多古藩
氏族 久松松平家康俊
父母 父:松平勝全、母:松平信直
兄弟 勝従、勝升、村上正方、全好
正室:植村家長
養子:勝権寿美
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松平 勝升(まつだいら かつゆき[1])は、江戸時代中期から後期にかけての大名下総国多古藩5代藩主。官位従五位下中務少輔大蔵少輔

略歴

安永7年(1778年)5月10日[1]、4代藩主・松平勝全の次男として誕生。兄・勝従が早世したため、安永8年(1779年)4月25日に世子となる[3]寛政3年(1791年)12月1日、14歳の時に将軍徳川家斉御目見[3]

寛政6年(1794年)10月6日、父が病気を理由に隠居したため家督を継いだ[3]。12月16日に従五位下・中務少輔に叙位・任官する[3]。寛政7年(1795年)2月、初めて封地多古へ赴く半年の暇を得る[4]。しばしば江戸城各門の番役を勤めた[4]

文政元年(1818年)8月19日[1]に死去した[注釈 2]。享年41[1]。跡を養子・勝権が継いだ。

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 「源三郎」は家祖松平康俊の通称であり、多古松平家では歴代当主(勝忠勝以を除く)が「源三郎」を称している。兄の勝従が源三郎を名乗っていたが[3]、勝升がこれを受け継いで名乗っている。
  2. ^ 文政元年9月5日1818年10月4日)没という異説もあるという[2]

出典

  1. ^ a b c d e 松平勝升”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月15日閲覧。
  2. ^ a b 『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年、p.491。
  3. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.282、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.288。
  4. ^ a b c d 通史編第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2023年6月4日閲覧。

参考文献

外部リンク





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