毛利広圓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 05:31 UTC 版)
毛利 広圓(もうり ひろかず、享保14年閏9月18日(1729年11月8日)[1] - 明和7年1月27日(1770年2月22日))は、長州藩一門家老である大野毛利家の5代当主。
父は毛利元雅。母は益田就賢の娘。正室は毛利政苗の娘。子は毛利就言。幼名は彦次郎。通称は織部。
生涯
享保14年(1729年)、長州藩一門家老毛利元雅の長男として生まれる。享保21年(1736年)、元雅の死去により家督を相続、当時の藩主毛利宗広より偏諱を賜い、広圓(旧字体:廣圓、新字体:広円)と名乗る。宝暦9年(1759年)、御留守居となる。明和元年(1764年)、朝鮮通信使来朝の際に饗応役を務める。明和3年(1766年)、当職(国家老、執政)を仰せつかる。開作(干拓)により知行8618石となる。明和7年(1770年)1月27日没。享年42。家督は嫡男の就言が相続した。
脚注
- ^ 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年、p.93。
参考文献
![]() |
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。
|
- 「吉見・浦・両村上略系譜」(東京大学史料編纂所)
- 「吉見系図」(東京大学史料編纂所)
毛利 広圓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/19 06:54 UTC 版)
明和7年1月27日(1770年2月22日))は、長州藩一門家老である大野毛利家の5代。
※この「毛利 広圓」の解説は、「毛利広圓」の解説の一部です。
「毛利 広圓」を含む「毛利広圓」の記事については、「毛利広圓」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 毛利広圓のページへのリンク