毛利元連とは? わかりやすく解説

毛利元連

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 13:52 UTC 版)

毛利 元連(もうり もとつら、元禄12年7月9日1699年8月4日[1] - 安永3年9月29日1774年11月2日))は、長州藩一門家老である厚狭毛利家の6代当主。

父は毛利就久。母は宍戸就附の娘。正室は徳山藩毛利元次の娘・幸。子に千代槌(宍戸広周室)、槌子(毛利広漢室)、千代菊(毛利就盈室)ら。男子は早世していたため、娘・千代菊の夫である就盈を婿養子とした。通称は七郎兵衛、伯耆。

生涯

元禄12年(1699年)、一門家老毛利就久の三男として生まれる。元服時には5代藩主・毛利吉元偏諱を受けて元連と名乗る。父・就久の死去により家督を相続したのは寛保3年(1743年)と遅かったが、それ以後は国元加判役(家老)として7代藩主・毛利重就に仕える。

宝暦元年(1751年)、養子として迎えられた重就の後継問題で、実子に家督を継がせたい重就と、有馬一準の次男で3代藩主綱広の外孫・演暢院を母に持つ有馬純峯(毛利重広)を6代藩主宗広の娘婿として迎えたい一門家老たちが対立する。宝暦2年(1752年)、先代宗広の遺言の通り、重広が婿養子として迎えられた。

宝暦10年(1760年)に重広が急死し、毒殺の風聞の立つ中で、重就の実子の岩之允(毛利治親)が嫡子に定められると反対派として処罰され、隠居して婿養子として迎えていた就盈に家督を譲った。

安永3年(1774年)9月29日死去。享年76。

脚注

  1. ^ 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年、p.74。

参考文献





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