第二次侵攻
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1636年4月16日、遅々として進まない交渉に業を煮やした台湾評議会はラメイ島の完全征服を決議する。計画によればJ.Linga(リンガ)中尉を指揮官としてジョージアス・カンディディウスらを補佐とすることとし、食料などを持参して持久戦の用意をして、1ヶ月は現地に留まって原住民を洞窟に追い込み、食料が尽きて出てきたところを一網打尽とするというものであった。4月19日にオランダ人の兵士・船員100名およびシンカン社などから得た援軍70―80名程度が3艘のジャンク船と数艘のサンバン船に分乗して、ラメイ島に向かった。ところが、数日して船団が下淡水(現在の東港鎮付近)に戻ってきてしまう。行政長官ハンス・プットマンスがリンガ中尉に問いただしたところ、21日に上陸して20名余りの住民と交戦してこれを撃破、住民が逃げ出した集落を占拠・焼き払ったものの、飲料水が無くて撤退したというものであった。長官は水が無ければヤシの実の汁で代用すること、原住民の洞窟の周辺を垣根で囲み、更に煙で洞窟から追い立てるように指示して再出発を命じた。26日にシンカン・パングソィヤ両社から新たに80名ずつの援軍を得て下淡水を出発した。現地に通じたシンカン・パングソィヤの住人がラメイ島の原住民が隠れている洞窟を発見、合わせて洞窟に3ヶ所の出入口があるのを確認した。そこでオランダ人は出入口を占拠してうち2ヶ所は土砂などで埋め尽くし、残り1ヶ所から煙を流し込んだ。その結果、4月29日に42名、5月3日に79名の原住民が投降し、その多くが女性と子供であった。その後も投降が続いた。5月1日から4日にかけてオランダの台湾統治の中心地であったタイオワン(現在の台南市安平区)にはラメイ島原住民222名が連行された。また、現地ではオランダ船だけではなく、台湾支配を巡って競争関係にあったイスパニアなどのヨーロッパの他国船の難破の痕も確認された。5月7日時点で洞窟の大部分の制圧は終わったが、オランダ人が確認した限りにおいて洞窟にいたのは約540名でそのうち捕虜になったのは323名であった。つまり、差し引き200名余りが激しい煙攻めによって死亡したことになる。彼らは原住民が頑固で投降を拒み続けたことが多くの死者を出した原因であると主張したが、実際には原住民側から出された和平交渉の要請を全て撥ね退け、かつ捕えられてもなお抵抗する原住民を容赦なく射殺したとされている。5月12日、プットマンス長官と評議会はラメイ島にオランダ兵30名を常駐させて引き続き原住民捕捉に努めることを決定した。5月30日に柵などの常駐設備が完成し、原住民の多くを捕獲したとする商館員からの報告書が提出され、6月2日に30名の駐留兵を残して撤退した。同日付の『ゼーランディア城日誌』には、リンガ中尉らからの報告などを引用してラメイ島の推定人口を1000人、うち捕虜になったのは500名で、現時点で生きているのは男性134名、女性157名、子供192名でその他は死亡した可能性が高いとしている。もっとも、今回の戦闘の規模や以後も2度の侵攻が行われたことから、全人口及び死亡者数はもっと多かった可能性がある。
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第二次侵攻
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10月、劉淵は再び洛陽攻略の軍を起こすと、劉聡・王弥・劉曜・劉景らに精騎兵5万を与えて出撃させ、大司空呼延翼に歩兵を与えて後続させた。劉聡らは河南で晋軍を打ち破ると、宜陽から西明門へ進んだ。西晋の護軍賈胤や北宮純らは宵闇に乗じ、勇士千人余りを率いて漢軍の陣営を夜襲し、征虜将軍呼延顥を討ち取った。そのため、劉聡は南へ軍を戻して洛水に陣営を築いたが、呼延翼が部下の反逆により殺されるとその軍は総崩れとなり、大陽より敗走してしまった。劉淵は劉聡らへ勅書を送って帰還を命じたが、劉聡は晋軍の脆弱さを主張し、呼延顥・呼延翼が戦死した程度で退却するべきではないと攻撃続行を固く要請したので、劉淵はこれを許した。しかし劉聡の軍は指揮官自らが偵察に向かい、本陣を空にした隙を狙われて大敗を喫したため、劉淵は軍を帰還させた。劉聡が平陽へ戻ると、大司徒に任じられた。
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第二次侵攻
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モンゴル側はこれらの朝廷移転やダルガチの殺害という明確な敵対行為に対して、2度目の遠征を行った。モンゴル軍は、第1次侵攻で降伏した洪福源に兵を率いさせ、半島北部を制圧。続いて半島南部へ到達したが、陸地からわずかの距離しかない江華島を制圧することができず、光州で反撃された。この間、サリクタイは龍仁附近で行われた処仁城(チョインソン)の戦いで流れ矢に当たり戦死し、モンゴルは撤退を余儀なくされた。
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第二次侵攻(石見路)
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「吉田郡山城の戦い」の記事における「第二次侵攻(石見路)」の解説
天文9年8月10日、尼子詮久は出雲・石見・伯耆・因幡・備前・備中・備後・美作・安芸の兵30,000 を率いて月山富田城を出陣した。今回は石見路を通り、赤名から口羽・川根・河井を経由し、9月4日には吉田郡山城の北西4kmに位置する風越山に本陣を敷き、湯原宗綱3,000余を左翼、高尾久友・黒正久澄・吉川興経を右翼に配置、側部・背部にも守備兵を置いて警戒を厳にした。 これに対して元就は、一族郎党を引き連れて吉田郡山城に籠城。城には精鋭2,400人と農民・商人・職人を加えて合計8,000人程度が入り、尼子氏の攻撃に備えた(『吉田物語』)。 さらに、吉田郡山城には宍戸隆家と天野興定が入城し、宍戸元源と福原広俊もそれぞれ五龍城と鈴尾城(安芸高田市)で籠城。頭崎城攻めを行っていた大内家臣の杉隆相も、小早川興景らを率いて坂城(安芸高田市)に駐留して急に備えるなど、吉田郡山城の支援態勢を整えた。
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第二次侵攻(1879年6月~7月)
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「ズールー戦争」の記事における「第二次侵攻(1879年6月~7月)」の解説
侵攻の再開は英軍にとって必ずしも成功は約束されていなかった。カンブラ、ギンギンドロブ、エショーヴェでの勝利にもかかわらず、彼らは1月の初めに侵攻を開始した地点まで後退していた。だが、チェルムスフォードは自らの軍事的名声と軍歴を守るためにウルズリーが到着するよりも前にセテワヨの軍隊を決定的に撃滅する必要があったのである。より多くの増援部隊が到着するとチェルムスフォードは部隊を再編し、6月に侵攻を開始した。 英国軍(チェルムスフォード中将)第一師団 - (ヘンリー・フォード・クリロック少将)第一旅団 - (ピアソン大佐) 第二旅団 - (クラーク大佐) 第二師団 - (エドワード・ニューディーゲート少将)第一旅団 - (コリンウッド大佐) 第二旅団 - (グリン大佐) 騎兵旅団 - (マーシャル少将) 別働隊 - (ウッド准将) クリロックの第一師団は海沿いを進軍。ニューディーゲートの第二師団と別働隊はロルクズ・ドリフトを越えて内陸部を進みカンブラを経てウルンディへ向かった。 初期の戦闘での英軍の戦死者の一人がフランス帝位請求者ナポレオン・ウジェーヌ皇太子だった。英軍に志願し従軍していた彼は6月1日に偵察部隊に加わって出動した際に戦死している。 セテワヨは新たに増強された英軍が非常に強力な敵であることを認識しており、和平条約の交渉を打診してきた。だが、ウルズリー将軍の到着が迫っており、チェルムスフォードには交渉の意思は全くなかった。彼はズールー軍主力を打ち破るべく王都ウルンディへ可能な限り早く前進した。 7月4日、砲兵隊とガトリング砲を擁する第二師団とウッドの別働隊の将兵5317人がウルンディ前面に到着。英軍と1万2千から2万のズールー軍が衝突し、最後の決戦ウルンディの戦い(英語版)が行われた。英軍は歩兵を2列、騎兵と原住民補助兵を内側に置いた方陣を組んでズールーの攻撃を待ち構えた。方陣はウルンディへ向けて前進し、午前9時にズールー軍が突撃をかけた。ズールー戦士たちの波状攻撃は小銃射撃によってなぎ倒される。ズールー軍が混乱したところへ騎兵隊が方陣から出撃して蹴散らした。戦闘は2時間で終わり、英軍の完勝だった。英軍は戦死12人、負傷70人だったのに対して、ズールー軍の犠牲者は1,500人に及んだ。ズールー軍は潰走し、ウルンディは焼き払われた。
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