第二次侵攻とは? わかりやすく解説

第二次侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 15:48 UTC 版)

ラメイ島虐殺事件」の記事における「第二次侵攻」の解説

1636年4月16日遅々として進まない交渉業を煮やした台湾評議会ラメイ島の完全征服決議する。計画によればJ.Linga(リンガ中尉指揮官としてジョージアス・カンディディウスらを補佐とすることとし食料などを持参して持久戦用意をして、1ヶ月現地に留まって原住民洞窟追い込み食料尽きて出てきたところを一網打尽とするというものであった4月19日オランダ人兵士船員100名およびシンカン社などから得た援軍7080程度が3艘のジャンク船と数艘のサンバン船に分乗してラメイ島に向かった。ところが、数日して船団が下淡水現在の東港鎮付近)に戻ってきてしまう。行政長官ハンス・プットマンスリンガ中尉問いただしたところ、21日上陸して20余り住民交戦してこれを撃破住民逃げ出した集落占拠焼き払ったものの、飲料水無くて撤退したというものであった長官無ければヤシの実の汁で代用すること、原住民洞窟周辺垣根囲み、更に煙で洞窟から追い立てるように指示して再出発命じた26日にシンカン・パングソィヤ両社から新たに80名ずつの援軍得て淡水出発した現地通じたシンカン・パングソィヤの住人ラメイ島の原住民隠れている洞窟発見合わせて洞窟に3ヶ所の出入口があるのを確認した。そこでオランダ人出入口占拠してうち2ヶ所は土砂などで埋め尽くし残り1ヶ所から煙を流し込んだその結果4月29日42名、5月3日に79名の原住民投降し、その多く女性子供であったその後投降続いた5月1日から4日にかけてオランダ台湾統治中心地であったタイオワン(現在の台南市安平区)にはラメイ島原住民222名が連行された。また、現地ではオランダ船だけではなく台湾支配巡って競争関係にあったイスパニアなどのヨーロッパ他国船の難破の痕も確認された。5月7日時点洞窟大部分制圧終わったが、オランダ人確認した限りにおいて洞窟にいたのは約540名でそのうち捕虜になったのは323であった。つまり、差し引き200余り激しい煙攻めによって死亡したことになる。彼らは原住民が頑固で投降拒み続けたことが多く死者出した原因であると主張したが、実際に原住民側から出され和平交渉要請全て撥ね退け、かつ捕えられてもなお抵抗する原住民容赦なく射殺したとされている。5月12日、プットマンス長官評議会ラメイ島にオランダ30名を常駐させて引き続き原住民捕捉努めることを決定した5月30日に柵などの常駐設備完成し原住民多く捕獲したとする商館員からの報告書提出され6月2日30名の駐留兵を残して撤退した同日付の『ゼーランディア城日誌』には、リンガ中尉らからの報告などを引用してラメイ島の推定人口1000人、うち捕虜になったのは500名で、現時点生きているのは男性134名、女性157名、子供192名でその他は死亡した可能性が高いとしている。もっとも、今回戦闘の規模以後2度侵攻が行われたことから、全人口及び死亡者数はもっと多かった可能性がある。

※この「第二次侵攻」の解説は、「ラメイ島虐殺事件」の解説の一部です。
「第二次侵攻」を含む「ラメイ島虐殺事件」の記事については、「ラメイ島虐殺事件」の概要を参照ください。


第二次侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:48 UTC 版)

劉淵」の記事における「第二次侵攻」の解説

10月劉淵は再び洛陽攻略の軍を起こすと、劉聡王弥劉曜劉景らに精騎5万与えて出撃させ、大司空呼延翼歩兵与えて後続させた。劉聡らは河南で晋軍を打ち破ると、宜陽から西明門へ進んだ西晋護軍賈胤や北宮純らは宵闇乗じ勇士千人余り率いて漢軍の陣営夜襲し、征将軍呼延顥を討ち取った。そのため、劉聡南へ軍を戻して洛水陣営築いたが、呼延翼部下反逆により殺されるとその軍は総崩れとなり、大陽より敗走してしまった。劉淵劉聡らへ勅書送って帰還命じたが、劉聡は晋軍の脆弱さ主張し呼延顥・呼延翼戦死した程度退却するべきではないと攻撃続行固く要請したので、劉淵はこれを許した。しかし劉聡の軍は指揮官自らが偵察向かい本陣を空にした隙を狙われ大敗喫したため、劉淵は軍を帰還させた。劉聡平陽へ戻ると、大司徒任じられた。

※この「第二次侵攻」の解説は、「劉淵」の解説の一部です。
「第二次侵攻」を含む「劉淵」の記事については、「劉淵」の概要を参照ください。


第二次侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:58 UTC 版)

モンゴルの高麗侵攻」の記事における「第二次侵攻」の解説

モンゴル側はこれらの朝廷移転ダルガチ殺害という明確な敵対行為に対して2度目遠征行ったモンゴル軍は、第1次侵攻降伏した洪福源に兵を率いさせ、半島北部制圧続いて半島南部到達したが、陸地からわずかの距離しかない江華島制圧することができず、光州反撃された。この間サリクタイ龍仁附近行われた処仁城(チョインソン)の戦いで流れ矢に当たり戦死しモンゴル撤退余儀なくされた。

※この「第二次侵攻」の解説は、「モンゴルの高麗侵攻」の解説の一部です。
「第二次侵攻」を含む「モンゴルの高麗侵攻」の記事については、「モンゴルの高麗侵攻」の概要を参照ください。


第二次侵攻(石見路)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:27 UTC 版)

吉田郡山城の戦い」の記事における「第二次侵攻(石見路)」の解説

天文9年8月10日尼子詮久出雲・石見伯耆因幡備前備中備後美作安芸の兵30,000率いて月山富田城出陣した今回石見路を通り赤名から口羽川根河井経由し9月4日には吉田郡山城北西4km位置する風越山本陣敷き湯原宗綱3,000余を左翼高尾久友・黒正久澄・吉川興経右翼配置、側部・背部にも守備兵置いて警戒厳にした。 これに対して元就は、一族郎党引き連れて吉田郡山城籠城。城には精鋭2,400人と農民商人職人加えて合計8,000程度入り尼子氏攻撃備えた(『吉田物語』)。 さらに、吉田郡山城には宍戸隆家天野興定入城し宍戸元源福原広俊それぞれ五龍城鈴尾城安芸高田市)で籠城頭崎城攻め行っていた大内家臣の隆相も、小早川興景らを率いて坂城安芸高田市)に駐留して急に備えるなど、吉田郡山城支援態勢整えた

※この「第二次侵攻(石見路)」の解説は、「吉田郡山城の戦い」の解説の一部です。
「第二次侵攻(石見路)」を含む「吉田郡山城の戦い」の記事については、「吉田郡山城の戦い」の概要を参照ください。


第二次侵攻(1879年6月~7月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:19 UTC 版)

ズールー戦争」の記事における「第二次侵攻(1879年6月~7月)」の解説

侵攻再開英軍にとって必ずしも成功約束されていなかった。カンブラ、ギンギンドロブ、エショーヴェでの勝利にもかかわらず、彼らは1月初めに侵攻開始した地点まで後退していた。だが、チェルムスフォードは自らの軍事的名声軍歴を守るためにウルズリーが到着するよりも前にセテワヨの軍隊決定的に撃滅する必要があったのである。より多く増援部隊到着するチェルムスフォード部隊再編し6月侵攻開始した英国軍チェルムスフォード中将第一師団 - (ヘンリー・フォード・クリロック少将第一旅団 - (ピアソン大佐第二旅団 - (クラーク大佐第二師団 - (エドワード・ニューディーゲート少将第一旅団 - (コリンウッド大佐第二旅団 - (グリン大佐騎兵旅団 - (マーシャル少将別働隊 - (ウッド准将) クリロックの第一師団海沿い進軍。ニューディーゲートの第二師団別働隊はロルクズ・ドリフトを越えて内陸部進みカンブラを経てウルンディ向かった初期の戦闘での英軍戦死者一人フランス帝位請求者ナポレオン・ウジェーヌ皇太子だった。英軍志願し従軍していた彼は6月1日偵察部隊加わって出動した際に戦死している。 セテワヨは新たに増強された英軍が非常に強力な敵であることを認識しており、和平条約交渉打診してきた。だが、ウルズリー将軍到着迫っており、チェルムスフォードには交渉意思全くなかった。彼はズールー主力打ち破るべく王都ウルンディ可能な限り早く前進した7月4日砲兵隊ガトリング砲擁する第二師団ウッド別働隊将兵5317人がウルンディ前面到着英軍1万2千から2万ズールー軍が衝突し最後の決戦ウルンディ戦い英語版が行われた。英軍歩兵を2列、騎兵原住民補助兵を内側置いた方陣組んでズールー攻撃待ち構えた方陣ウルンディ向けて前進し午前9時にズールー軍が突撃をかけた。ズールー戦士たち波状攻撃小銃射撃によってなぎ倒されるズールー軍が混乱したところへ騎兵隊方陣から出撃して蹴散らした。戦闘は2時間終わり英軍完勝だった。英軍戦死12人、負傷70人だったのに対してズールー軍の犠牲者は1,500人に及んだズールー軍は潰走し、ウルンディ焼き払われた。

※この「第二次侵攻(1879年6月~7月)」の解説は、「ズールー戦争」の解説の一部です。
「第二次侵攻(1879年6月~7月)」を含む「ズールー戦争」の記事については、「ズールー戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第二次侵攻」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第二次侵攻」の関連用語

第二次侵攻のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第二次侵攻のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラメイ島虐殺事件 (改訂履歴)、劉淵 (改訂履歴)、モンゴルの高麗侵攻 (改訂履歴)、吉田郡山城の戦い (改訂履歴)、ズールー戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS