モンゴル軍の第二次侵攻とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > モンゴル軍の第二次侵攻の意味・解説 

モンゴル軍の第二次侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 13:51 UTC 版)

陳朝」の記事における「モンゴル軍の第二次侵攻」の解説

モンゴルのベトナム侵攻英語版)」および「元越戦争 (1283年)(ベトナム語版)」も参照 1257年大越侵入したモンゴル軍目的あくまでも宋を南から攻撃することであり、大越征服する意思無かった。しかし、1280年代より大越従属目的とした本格的な攻撃開始される1277年上皇として政務を執っていた太宗没し、翌1278年聖宗は子の陳昑(仁宗)に譲位する1282年より元はベトナム南中部チャンパ王国への遠征行っており、海路からのチャンパ侵攻失敗した元軍は大越領土通過して陸路よりチャンパ攻撃しようとしていた。平灘(ビンタン現在のハイズオン省チーリン)で開かれた会議王侯官吏らは領土通過しようとする元軍への対策話し合い陳柳の子である興道陳国峻(チャン・クォック・トアン、「陳興道」の名でも知られる)が対モンゴル戦の総指揮官に選ばれるクビライ皇子トガン率いる元軍が通過途上食料供給要求すると、以前から元軍の過大な徴発に不満を抱いていた仁宗トガン要求をなかなか実行移そうとはしなかった。1285年初頭各地長老たち招集しての延洪会議開かれ、元軍に対して軍事行動起こすことで全員意見一致したかくして敵意を抱く大越服従させるためにトガン大越攻撃標的とし、1285年1月より元軍の大越攻撃開始される。 元軍の攻撃苛烈極めるものであった陳国峻は軍を後退せざるを得なくなり大越内に投降者が続出する首都昇龍は元軍に占領され皇族中にも太宗の五男であった国王陳益稷(中国語版)(チャン・イック・タック)のように元軍に降伏する者が現れる相次ぐ敗戦仁宗降伏考えるが、陳国峻叱咤によって翻意し、抗戦続けることを決意した陳国峻は元軍の戦力各地分散していることを見て取ると、ジャングル山岳地帯などの険阻な地形利用してゲリラ戦展開して元軍に打撃与え、また官民による「清野財産食糧を隠す)」策によって元軍の食糧調達妨げた紅河デルタ地帯での大越軍の奮戦不慣れな南方気候疫病によって 元軍は北に後退し大越軍は昇龍奪還した後、追撃戦勝利を収めた1285年6月戦争は一旦終息し、翌1286年大越は元軍の捕虜返還した

※この「モンゴル軍の第二次侵攻」の解説は、「陳朝」の解説の一部です。
「モンゴル軍の第二次侵攻」を含む「陳朝」の記事については、「陳朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「モンゴル軍の第二次侵攻」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「モンゴル軍の第二次侵攻」の関連用語

1
4% |||||

モンゴル軍の第二次侵攻のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



モンゴル軍の第二次侵攻のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの陳朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS