モンゴル軍の第二次侵攻
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「モンゴルのベトナム侵攻(英語版)」および「元越戦争 (1283年)(ベトナム語版)」も参照 1257年に大越に侵入したモンゴル軍の目的はあくまでも宋を南から攻撃することであり、大越を征服する意思は無かった。しかし、1280年代より大越の従属を目的とした本格的な攻撃が開始される。 1277年に上皇として政務を執っていた太宗が没し、翌1278年に聖宗は子の陳昑(仁宗)に譲位する。 1282年より元はベトナム南中部のチャンパ王国への遠征を行っており、海路からのチャンパ侵攻に失敗した元軍は大越の領土を通過して陸路よりチャンパを攻撃しようとしていた。平灘(ビンタン、現在のハイズオン省チーリン)で開かれた会議で王侯、官吏らは領土を通過しようとする元軍への対策を話し合い、陳柳の子である興道王陳国峻(チャン・クォック・トアン、「陳興道」の名でも知られる)が対モンゴル戦の総指揮官に選ばれる。クビライの皇子のトガン率いる元軍が通過の途上で食料の供給を要求すると、以前から元軍の過大な徴発に不満を抱いていた仁宗はトガンの要求をなかなか実行に移そうとはしなかった。1285年初頭に各地の長老たちを招集しての延洪会議が開かれ、元軍に対して軍事行動を起こすことで全員の意見が一致した。かくして敵意を抱く大越を服従させるためにトガンは大越を攻撃の標的とし、1285年1月より元軍の大越攻撃が開始される。 元軍の攻撃は苛烈を極めるものであった。陳国峻は軍を後退せざるを得なくなり、大越内に投降者が続出する。首都の昇龍は元軍に占領され、皇族の中にも太宗の五男であった昭国王陳益稷(中国語版)(チャン・イック・タック)のように元軍に降伏する者が現れる。相次ぐ敗戦に仁宗は降伏を考えるが、陳国峻の叱咤によって翻意し、抗戦を続けることを決意した。陳国峻は元軍の戦力が各地に分散していることを見て取ると、ジャングル、山岳地帯などの険阻な地形を利用してのゲリラ戦を展開して元軍に打撃を与え、また官民による「清野(財産や食糧を隠す)」策によって元軍の食糧調達を妨げた。紅河デルタ地帯での大越軍の奮戦、不慣れな南方の気候と疫病によって 元軍は北に後退し、大越軍は昇龍を奪還した後、追撃戦で勝利を収めた。 1285年6月に戦争は一旦終息し、翌1286年に大越は元軍の捕虜を返還した。
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