モンゴル軍への加勢、そして滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:24 UTC 版)
「アンティオキア公国」の記事における「モンゴル軍への加勢、そして滅亡」の解説
「フランクとモンゴルの同盟」も参照 1258年にバグダードのアッバース朝を滅ぼしたフレグ率いるモンゴル軍がシリアに進軍すると、キリキアとアンティオキアはこれをムスリムに対する聖戦とみて、モンゴル軍に従ってムスリムと戦いダマスカスとガザを陥落させエジプトに向かったが、1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍と連合軍はバイバルス率いるエジプトのマムルーク軍に敗れた。 アイユーブ朝を滅ぼしマムルーク朝のスルタンとなったバイバルスは、キリキアとトリポリ=アンティオキアに対する懲罰戦を練った。フレグ没後の混乱に乗じてバイバルスは1265年に北上し、キリキアの諸都市を破壊し再起不能とした。さらに1268年にトリポリ攻撃にかかったが、アンティオキア公とトリポリ伯を兼ねるボエモン6世が篭城の準備をしていると見るやアンティオキアに向かい、たった4日でこれを占領し、全住民を奴隷とするか虐殺して都市を完全に破壊した。 これによってアンティオキア公国は滅亡し、以後、東地中海最大の都市だったこともあったアンティオキアは廃墟の中の一寒村と化し歴史から姿を消した。 アンティオキアを失ったボエモン6世はバイバルスと休戦し、以後休戦は継続されたが、再度モンゴル軍が侵攻した後の1289年にトリポリは陥落しトリポリ伯国も滅亡した。
※この「モンゴル軍への加勢、そして滅亡」の解説は、「アンティオキア公国」の解説の一部です。
「モンゴル軍への加勢、そして滅亡」を含む「アンティオキア公国」の記事については、「アンティオキア公国」の概要を参照ください。
- モンゴル軍への加勢、そして滅亡のページへのリンク