モンゴル軍の侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 01:24 UTC 版)
「ベーラ4世 (ハンガリー王)」の記事における「モンゴル軍の侵入」の解説
「モンゴルのポーランド侵攻」も参照 モンゴル侵入の報告が伝えられると、ベーラは貴族とクマン人に号令をかけ、軍隊の招集を試みた。モンゴル軍の通過した地域は略奪と虐殺に晒され、ペシュトの城壁の外ではモンゴル騎兵がハンガリー軍を誘い出すために連日挑発を行っていた。ペシュトの市民はクマン人がモンゴルの侵入を招いたとみなし、クタンと部下たちを殺害した。クタン殺害の報告が地方に伝わると、農民たちはベーラの元に向かおうとするクマン人たちを殺害する。合流したクマン人たちは報復として平原部と国境地帯で収奪を行い、略奪品を携えてブルガリアに移動した。 ベーラが実施した王権の回復に不満を持つ大貴族は協力を拒み、ハンガリー軍は減少した兵力でモンゴルと戦わなければならなかった。1241年4月11日のモヒ(ムヒ)平原の戦いでハンガリー軍は大敗、エステルゴムとカロチャの大司教を始めとする聖職者と貴族が戦死し、ベーラの弟カールマーンも戦闘の負傷によって落命した。ベーラはプレスブルク(現在のブラチスラヴァ)に逃れて、同地を訪れていたオーストリア公フリードリヒ2世の保護を受ける。しかし、フリードリヒは以前ベーラに支払った賠償金の返済を求め、ベーラは多くの財貨を引き渡し、オーストリアに隣接する3つの州の割譲を余儀なくされた。 オーストリアからザグレブに移動し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と教皇グレゴリウス9世のもとに援助を求める使節を送った。フリードリヒ2世に対してはハンガリーに軍隊を送る見返りとして神聖ローマ帝国の宗主権を認めることさえ提案したが、いずれの勢力もハンガリーに援助を行わなかった。 その頃モンゴル軍はドナウ川西部の領土を略奪し、翌1242年に凍結したドナウ川を渡ってより深く進軍した。ベーラはモンゴルの王族カダンの追跡から逃れるため、ダルマチアの海岸部に避難した。ダルマチア海岸の都市にはハンガリーからの亡命者が多く押し寄せ、ベーラは貴族と聖職者を伴ってスプリト、トラオに移動し、トラオからアドリア海沖の島に渡った。一方カダンはクリス城(英語版)(クリッサ)にベーラが立て籠もっていると考えて包囲を行うが失敗し、ベーラがクリッサにいないことを聞き知ると包囲を解き、トラオとスプリトに軍を分けて進軍した。トラオに到着したカダンはベーラが籠る島の向かいに陣を敷くが、1242年3月にオゴデイ・ハーンの訃報が届けられると東方に帰還した。 ベーラはモンゴル軍が完全に退却したことを確認して島から出、島に自分の名を冠した「ベーラ島」という名を付けた。
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