マリアとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 15:00 UTC 版)
「コンスタンティン・ティフ」の記事における「マリアとの結婚」の解説
ブルガリアはハンガリーと東ローマに対抗するため、シチリア王カルロ1世が提唱する反ミカエル8世の同盟に加わった。 1268年に妃のイレネが亡くなると、翌1269年にコンスタンティンはミカエル8世の姪マリア(英語版)を娶り、東ローマとの関係の改善を図った。しかし、マリアの婚資として約束されていたアンギアロス(現在のポモリエ)とメセンブリア(現在のネセバル)の譲渡を巡り、東ローマとの関係が悪化する。ミカエル8世は非嫡出の娘エヴフロシニをジョチ・ウルスの有力者ノガイに嫁がせてブルガリアに対抗し、東ローマの同盟者となったノガイの軍は1274年にブルガリアで略奪を行った。このためブルガリア軍は撤退しなければならず、アンギアロスとメセンブリアの請求権は放棄された。 また、ミカエル8世は1274年に開催された第2リヨン公会議に使節を送り、正教会とローマ教会の合同を承諾し、このためブルガリアと東ローマの関係は悪化した。東ローマ貴族の間では教会合同に対する賛否が分かれており、コンスタンティンの妃マリアと彼女の母は、教会合同に対して否定的な立場を取っていた。 治世の末期、コンスタンティンは落馬のために体の一部が麻痺し、原因不明の病に罹る。コンスタンティンの代理として妃のマリアが政務を執り、1272年ごろに2人の間に生まれたばかりの子ミハイルを共同統治者に戴冠した。マリアは1270年代の東ローマとの外交で主要な役割を果たし、また1276年にヴィディンで皇帝を僭称していたヤコブ・スヴェトスラフの毒殺を指示した。 一方、軍費を費やした末の敗戦、度重なるモンゴル軍の侵入、経済不安はブルガリアの農民を苦しめ、1277年に農民イヴァイロが指導する民衆の蜂起が発生する。コンスタンティンは反乱の鎮圧に向かい、反乱軍との会戦では脚に障害を負っていたコンスタンティンは馬車に乗って指揮を執った。しかし、皇帝側は大敗し、コンスタンティンは捕らえられて殺害された。
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