デスポテース・アレクシオス
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「ベーラ3世 (ハンガリー王)」の記事における「デスポテース・アレクシオス」の解説
マヌエル1世の元から派遣された使者に伴われ、1163年末にベーラはコンスタンティノープルに到着した。ベーラはアレクシオスに改名し、従来は皇帝だけが使用していたデスポテースの称号を与えられ、ベーラとマヌエル1世の娘マリアの結婚が正式に発表された。 1164年夏にイシュトヴァーン3世はシルミウムに侵入する。キンナモスによって、マヌエル1世はイシュトヴァーン3世の元に軍を率いて進み、「ハンガリーに対して戦争を行うのではなく、ベーラの土地を回復するのだ」と述べたことが記されている。ハンガリーの迎撃に際して、ベーラはかつて反乱を起こした叔父のイシュトヴァーンや縁戚のステファノス・カラマノスとともにマヌエル1世に従軍した。戦争の開始から間も無くイシュトヴァーン3世は平和条約に調印し、ベーラに与えられていた領地に対する権利の放棄を認めなければならなかった。東ローマ軍はシルミウムを占領し、シルミウムは東ローマの行政区画に編入された。 1165年春、イシュトヴァーン3世はシルミウムへの新たな軍事作戦を開始する。マヌエル1世はハンガリー軍の迎撃を命じ、ベーラは再びマヌエルに同行した。東ローマ軍がジモニ(現在のセルビアのゼムン)を奪還した後、ベーラは捕虜としたハンガリー兵の処刑を取りやめるよう、マヌエル1世に願い出た。また、東ローマ軍はダルマチアを占領する。イシュトヴァーン3世とマヌエル1世の間に結ばれた新たな平和条約によって、ベーラの公国の宗主権が東ローマ帝国にあることが確認され、ダルマチアとボスニアは東ローマのテマに編入される。 1165年の秋に、マヌエル1世は公に自分の娘とベーラを後継者に指名し、東ローマの貴族たちにベーラへの忠誠を宣誓させた。マヌエル1世の従兄弟であるアンドロニコス・コムネノスだけは勇気を奮ってマヌエル1世の行動を非難し、「全てのローマ人の男には王女と床を共にする価値がないと考えて、あらゆる人物の中からこの外国の侵入者をローマの皇帝に選び、支配者の椅子に座らせるとは皇帝は気が狂ってしまわれたのか?」と抗弁したことが、同時代の人間であるニケタス・コニアテスによって伝えられている。1166年春、プロトストラトルのAlexios Axouchがハンガリー軍のシルミウム侵入に対する報復の軍を率いて出撃すると、ベーラは彼に同行した。1166年4月11日にマヌエル1世はベーラとマリアの間に結ばれていた七等親間の婚約を無効とするコンスタンティノープル総主教府の決定を受け取った。1166年の秋にマヌエル1世はシチリアの新王グリエルモ2世にマリアとの結婚を持ちかける。 1167年にハンガリーと東ローマの間に新たな戦争が勃発し、同時代の歴史家ラーエヴィンはベーラがイシュトヴァーン3世に対して「王国を要求した」ことが戦争の原因であると記している。また、ミューゲルンのハインリヒはベーラの軍隊に多くのハンガリー人が従軍していた事を記録し、「ハンガリー王国の権利はベーラに属する」と述べている。1167年7月8日に東ローマ軍はシルミウムの戦い(英語版)でハンガリー軍に大勝を収める。戦後ハンガリー軍と東ローマ軍の間に和平条約が調印され、東ローマがダルマチア中央部、ボスニア、シルミウムの支配権を有することが確認された。
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