戦争の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 01:48 UTC 版)
「アスガルド (オンラインゲーム)」の記事における「戦争の開始」の解説
22:00にゴフの部屋にいたキャラクターは、ダンジョンスクランブル1に移動させられる。善はフィールドの左側、悪は右側に、やや広い範囲にランダムに飛ばされる。 キャラクターの頭上に、剣または盾のマークが付く。善と悪にそれぞれマークが割り当てられるが、どちらに何か割り当てられるかはイベントの開催ごとに異なる。 ログアウトして再びログインしても、飛ばされることはない(リログ制限無し)。ログインしたときイベントが終了していた場合は、コスモフォリアに飛ばされる(飛ばされないことがある不具合も確認されている)。
※この「戦争の開始」の解説は、「アスガルド (オンラインゲーム)」の解説の一部です。
「戦争の開始」を含む「アスガルド (オンラインゲーム)」の記事については、「アスガルド (オンラインゲーム)」の概要を参照ください。
戦争の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 09:17 UTC 版)
「ロシア・カザン戦争 (1505年-1507年)」の記事における「戦争の開始」の解説
戦争はイヴァン3世が死ぬ間際の1ヶ月に、カザンに滞在していたモスクワの使節であるミハイル・エロープキン=クリャピクに対する背徳的な拘禁並びにロシア人商人に対する襲撃(その財産は強奪され、商人自身もある者は殺され、ある者は身代金ないし奴隷として売るために捕えられた)を契機として始まった。この事件は大規模な定期市が開かれた1505年6月24日に生じ、この時、とりわけ多くのロシア人商人がカザンにいた。この後、タタール軍はニジニ・ノヴゴロドへ進撃し、同都市を9月に包囲した。タタール軍は60000人の戦力を有し、その内訳はカザン・タタール人が40000人、ノガイ・タタール人が20000人であり、ヤムグルチの息子とカラクーシュの兄弟が率いていた。 ニジニ・ノヴゴロドは十分に強化され、要塞には火器が設置されていたが、戦闘経験が豊富な軍司令官であるイヴァン・ヴァシリエヴィチ・ハラム・シムスキーが指揮するごく僅かな守備兵が同都市を防衛した。十分な装備を有しながら戦力を有していなかったことから、ベドローシャの戦いで捕えられ、ニジニ・ノヴゴロドにいたリトアニアの捕虜達(彼等の大部分は民族的にはロシア人(ルーシ人)で来るべき和平に関連して釈放されることを期待していた)が武装することとなった。当然のことながら、タタール人によるニジニ・ノヴゴロドの占領はたとえ死ぬことはなくても奴隷とされる恐れがあり、それ故にリトアニア軍捕虜達は自ら進んで防衛戦に参加したのであった。襲撃の結果、あるいはタタール軍ないし住民自身によって城外の商工地区は焼かれた、けれどもタタール軍は城壁への襲撃に取りかかることなく、城塞からの砲火によってノガイ軍の公が戦死し、加えてロシア軍が到着したとの知らせを受けてタタール軍はカザンに退却した。 ロシア政府はホルムスク公ヴァシーリー・ダニイロヴィチ、サティルガン、ジャナイが指揮する100000人の兵力を動員したものの、ムーロムより先は進軍しなかった。1505年度のムーロムにてロシア軍が怠惰をむさぼっていたことは、この戦争における重大な局面の一つとしては納得がいくものではなかった。
※この「戦争の開始」の解説は、「ロシア・カザン戦争 (1505年-1507年)」の解説の一部です。
「戦争の開始」を含む「ロシア・カザン戦争 (1505年-1507年)」の記事については、「ロシア・カザン戦争 (1505年-1507年)」の概要を参照ください。
戦争の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 08:40 UTC 版)
「ロシア・カザン戦争 (1467年-1469年)」の記事における「戦争の開始」の解説
カザン・ハン国の建国はモスクワとカザン間との商業上の争いをもたらしたが、その後、長い期間に渡って両者の間では平和的な関係が維持された。1461年にウラジーミルにてタタール人に対する軍が召集されたが、カザン・タタール人は使者を送って平和が乱されることはなかった。1462年のモスクワ大公ヴァシーリー2世盲目公没後から程なくしてカマ川上域にて衝突が生じた。けれども商業上の争いは1467年には余り表面化しなかった。 マフムード・ハン没後、その妻は慣習に従ってハンの兄弟かつカシモフ・ハン国の皇子であったカシムと結婚した。ハリルはカザンのハンとなったものの、程なくして没し、マフムードの別の息子であるイブラヒムがハンとなった。カシムがハンの母親と結婚していることは明白であり、幾つかのカザンの慣習に従うならば既存のハンよりもハン位につく権利は大きくはなかった。モスクワ派はハン位につくようにカシムのもとに赴いた。新大公イヴァン3世大帝は好機を利用してイヴァン・ヴァシリエヴィチ・ストリガ・オボレンスキー並びにホルムスク公ドミトリー・ドミトリヴィチを指揮官とする大軍を援軍としてカシムのもとに差し向けた。 1467年9月14日にロシア軍はカザンに入城した。イヴァン3世は予備軍とともにウラジーミルにいた。けれどもカザンにおけるカシム派は余りにも弱体であり、自身の請求者に対して支持を表明することが出来なかった。カザン民衆はイブラヒム・ハンのもとに結集し、スヴィヤガ川河にてモスクワ軍はタタール軍と邂逅し、そこではロシア軍をヴォルガ川左岸に渡河させなかった。ロシア軍はタタール軍を船から誘い出そうとしたが失敗に終わった。悪天候並びに不十分な装備の状況下においてロシア軍は本国からの船団を待たずしてカザンから退却することを余儀なくされた。ロシアの最初の大規模なカザンへの遠征は完全に失敗に終わった。カシムは程なくして死んだが、このことは将来の出来事に影響を及ぼさずにはいられなかった。ロシアは、敵の襲撃を撃退するための砦並びに軍隊の準備に取りかかった。 ロシアによる遠征の返答としてカザン軍はガーリチを襲撃して郊外を荒らしたが、同都市を落とすことは出来なかった。ヤロスラフスク公ロマン・セミョノヴィチを軍司令官とするモスクワの軍勢がガーリチ救援に赴いてタタール軍を壊滅させた。この部隊は12月6日にスキー部隊でガーリチから出撃した。森を通り抜けて«チェレミス人の地»を突然襲撃してタタール軍を惨たらしく殺し、1日の間で彼等は一兵たりともカザンに辿り着くことは出来ず、ロシア軍は多くの戦利品を携えて帰還した。冬の終わりにタタール軍はユグ川上域のキーチェンメングの町を攻略して4月初頭にコストロマの地を荒らした。オボレンスキー公の部隊はタタール軍を200kmほど追撃したが、追い付くことが出来なかった。1468年5月1日にタタール軍部隊はムーロムを襲撃したもののホルムスク公によって壊滅させられた。 1468年の夏にロシア軍は主導権を自身の手で握ろうと試みた。リャポロフスク公フョードル・セミョノヴィチの«前哨部隊»はニジニ・ノヴゴロドを出撃して6月4日カザンから40ベルスタにあるズヴェニチェブの樹林にてタタール軍の精鋭部隊を壊滅させた。別のロシア軍の大部隊はガーリチを出撃してヴャトカ川並びにカマ川を下ってカザンへと出る必要があった。けれどもタタール軍はヴャトカへ遠征を行い、この時、同都市はイヴァン3世に直に従わないで争乱から脱した。ヴャトカにはタタール人の代表団が残ったが、和平の条件その物はかなり寛大であったものの、肝心なところはロシア軍が賛同するところではなかった。軍司令官イヴァン・ドミトリエヴィチ・ルノ率いる総勢300人から成る少数のロシア軍部隊のみがタタール軍が遮断していたカマ川に打って出ることが出来た。タタール軍の遮断にも係わらず、ルノはカザン軍への後方へ行軍を続けた。ルノの軍勢に対してタタール軍部隊が派遣された。敵軍との遭遇下で平底船を捨てて徒歩で川岸で戦った。ロシア軍は勝利した。後にロシア軍は大ペルミとヴェリキイ・ウスチュグを回って帰還した。タタール軍はムーロムへの新たな襲撃を行ったもののホルムスク公はこれを追って壊滅させしめた。
※この「戦争の開始」の解説は、「ロシア・カザン戦争 (1467年-1469年)」の解説の一部です。
「戦争の開始」を含む「ロシア・カザン戦争 (1467年-1469年)」の記事については、「ロシア・カザン戦争 (1467年-1469年)」の概要を参照ください。
- 戦争の開始のページへのリンク