戦争の近代化と塹壕戦の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 04:52 UTC 版)
戦争の近代化は、戦場において兵士が銃弾から身を隠す必要性を増大させた。既に19世紀の南北戦争やクリミア戦争では、銃火器の有効射程が大幅に増したため、兵士は塹壕や掩蔽壕に隠れる必要性に迫られた。連続射撃では視界を奪うほどの白煙を生む黒色火薬が、視界を妨げず、残渣が少なく銃腔内を汚しにくい上に威力も増した無煙火薬に取って代わられた。 さらには後装銃の普及と武器・弾薬の生産力補給力の増強、さらには火力の密度が増したこと、命中率の高いライフル銃の普及により、遠距離から狙撃されるようになった。20世紀にさしかかる頃には、手動式連発銃の普及と弾薬供給力のさらなる増強で、火力の密度がより増した。 第一次世界大戦においては、機関銃の大規模運用により、歩兵や騎兵による正面突撃を確実に撃退しうる火線が完成したこと、発達した鉄道網による迅速な増援・補給が行われたことによって、従来の戦術で塹壕地帯を突破することは困難になった。 しかも、敵軍に塹壕を迂回されるのを阻止するために、拡張を続けたフランス・ドイツ帝国両軍の塹壕線は次々と横に延び、特に西部戦線では、北はイギリス海峡から南は永世中立国であったスイス国境地帯までの長大な塹壕地帯が形成され(いわゆる「海への競争(英語版)」)、塹壕地帯を迂回して進軍することは不可能になった。 防御優位の戦況は、前線の膠着をもたらし、お互いに塹壕を築いて長期間にわたり睨み合う総力戦となった。この過程で戦争の中心は従来の会戦から、敵の塹壕を制圧する事を目指す塹壕戦へと変わっていた。これは戦争初期、ドイツ陸軍が迅速な機動戦によりフランスを攻略しようとした、初期のシュリーフェン・プランが失敗した結果である。幾度もの攻防で、数千-数十万人の犠牲を積み上げるも、双方とも塹壕地帯を突破しきれず、終戦までの約4年間にわたり塹壕戦が続いた。 塹壕戦が始まると、塹壕を掘る作業が歩兵の最も重要な仕事の一つとなった。第二次世界大戦の頃には「歩兵の仕事は8割が塹壕掘り」と言われるまでになった。
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